2017年4月25日火曜日

4/23 海と芝桜、教会の礼拝

4/20 の益田市小浜町の海です。
 波音を聞きながらの礼拝です。


  4/23 徳山C献花です。
  4/18 クリスマスローズが捧げられました。赤と緑です。

4/23 芝桜が満開です。

4/20.4/23ともに益田、六日市、徳山で礼拝が行われました。
4/22は奈良で益田教会会員の納骨式が行われました。

今週、来週共に礼拝、集会は以下の日程で行われます。

4/25(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



4/29(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

4/30(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【ヨハネ福音書2019-23節】
レクリエーション(余暇、娯楽)とは、聖書に由来する言葉です。Re+creation「再創造」なのです。余暇や娯楽などは私たちの気持ちを新たにし、それぞれの場に立ち返っていくことが出来ます。そうです、まさに教会に出かけ主からの祝福を受けることが、私たちにとって本質的な再創造、レクリエーションなのです。教会で過ごすことで心身が整えられるのです。

ヨハネ福音書では主復活の日、ある婦人が墓に行くと空でした。弟子たちのペトロ,ヨハネが墓へ走り、空であることを確認します。だが主復活の確信には至りません。時は夕方だったとヨハネ福音書は記します。夕方とは、確かにこの時の時間だったでしょう。加えて「人生のたそがれ時」を過ごす弟子たちの心境でもあったでしょう。無責任に、不従順に裏切ってしまった。そんな自分たちの傷をなめ合うために、今後のことを相談する弟子たちです。主はそんな弟子たちの家に入り、手足の傷を見せます。恨みはなく赦しの表情でした。

ところが使命を受けた弟子たちは26節を見ると、再度閉じ籠りますね。19節と26節、恐れこそないものの鍵は掛けています。希望と恐怖、前進と後退の繰り返し。そういう弟子たちに赦しの権能が授与されたことが大事です。赦されたけれど、現実に恐れてしまう。8日後主の励ましは薄れ鍵を掛けてしまう。主は再度来るのです。浮き沈みはあるが最後に浮けば良い。七転八倒の現実の中で、七転び八起きの信仰を持つことが大事です。

主は弟子たちに息を吹き入れるという不思議な仕草をなさいます。創世記を彷彿とさせます。神が土人形に息吹くと人となる古事です。創世記にならい、主がそんな弟子たちを再創造したということです。レクリエイションとは、聖書のこの記事を原典とするのです。レクリエイションは本来、教会でのみ成し得るのです。私たちも、再創造(日曜日)と諸事多難(月~土)の日々の繰り返し、信仰と不信が混ざっています。それで良いのか。良いのです。

 


2017年4月16日日曜日

4/16 イースター礼拝と献花と海

 4/15 益田小浜、益田元町、六日市ではイースター礼拝が行われました。
 写真は益田小浜海岸です。

 4/16 徳山でイースター礼拝が行われました。
 桃の花?でしょうか。

こちらは礼拝堂の献花です。ルターのバラです。

本日は礼拝後、徳山で持ち寄り愛さんが行われました。
礼拝の中では洗礼式も行われました。
洗礼式の写真は、牧師ですので撮りそびれました。

今週、来週共に礼拝、集会は以下の日程で行われます。

4/18(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



4/20(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

4/22(土)11:00 奈良にて、会員納骨式

4/23(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書281-10節】
 「復活祭」は主の復活を覚える時です。主に「新しい命」が与えられた。これは文字通りの命。その主が私たちに先立ち弟子たちに「新しい命」を与えた。これは「命」そのものでなく、やがての時には「天国への切符」という意味になりますし、この世で生きる時には「再チャレンジの心」と言い換えることが出来ます。「新しい命」は、私たちにも上記の意味です。

 天使は婦人たち「弟子たちにガリラヤに行けと伝えよ」と言付けます。「ガリラヤ」とは、この時どこかに隠れている弟子たちにどのような意味を持つ場所でしょうか。その意味を婦人たちも考えたことでしょう。考えつつ帰路を歩む婦人たちに、復活の主が現れ「おはよう」と言われます。もう少し気の利いた挨拶は無かったのか、否、主にとって万感の言葉だったでしょう。復活は予告しておられたこととは言え、想像を絶する苦しみを受ける主をマタイ福音書は語ります。婦人たちはそんな主を遠目で見ていました。「復活などあり得ない」と思っていた婦人たちに「死線を越えた」ことを示されたのです。ちなみに「おはよう」は、日本語ですとごく一般的な挨拶ですが、原語では「会えて嬉しいのだ」という意の言葉です。

 「ガリラヤに行け」言われるまでもなく、弟子たちはこの後ガリラヤに帰る心持ちでした。帰って何をするかというと、元職に就く漁師たち、漁で養われる残りの7人の姿をヨハネ福音書は描いています。「足を洗って堅気に戻った」弟子たちです。しかし主は「ガリラヤに行け」に「足を洗って堅気に戻れ」という意味を含めません。「主と出会った」原点に立ち返れの勧めです。十字架直前の不作為や不従順を赦す。再度主の弟子として歩みだせとの意味です。

主と再会しなければ、弟子たちは負い目を抱えつつ生きる所でした。負い目を抱え生きる、その辛さは私たちも知っています。主は弟子たちの負い目を軽くするのです。マタイ福には「疲れた者…」の言葉があります。その言葉を言われた主は、「来る」のを待つのでなく、主から近づき、弟子たちの重荷を担うのです。弟子たちへの「新しい命」です。
 

2017年4月9日日曜日

4/9 礼拝と献花

 4/8 益田小浜の海。花曇りの日でした。

 4/9 徳山の献花。the 春という感じです。
4/9 徳山の献花。the 春 です(こちらも)。

昨日、本日とも益田、六日市、徳山では礼拝が行われました。
礼拝後には徳山で、昔の宣教師直伝というスパゲッティを頂きました。

今週、来週共に礼拝、集会は以下の日程で行われます。

4/11(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。

4/14(金)19:00 徳山 受苦日礼拝

4/15(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

4/16(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書2745-56節】
「受難主日」を迎えています。「枝の主日」ともいいます。簡単に言えば「枝の主日」は王としてのイエスさまを、「受難主日」では苦難のイエスさまを覚えるのです。改めて主の苦難を覚えるという趣旨でこの日課を選んでいます。聖書の場面はまさに主の最期の時です。

「十字架」刑は死刑の一つです。死刑とは「罪人」の命を奪う刑罰です。が、人は残酷です。命を奪うその刑の過程に「苦しみ」を付加することも考えた。その点で考えれば、十字架刑は「罪人」の心身を長く苦しませる刑。心への打撃は、衆人環視のもとでのむち打ち、衣服はく奪、木を負っての刑場への行進です。身体への打撃は、手首へ打釘。動脈は避けますが痛覚が破壊され、痛みは薄れるようです。ただ出血します。そして木に吊るす時に、自重で肩関節が外れる。脱臼の痛み、横隔膜圧迫の呼吸困難、渇きから最期は呼吸困難で死ぬ。脇腹の槍は、「とどめの槍」でなく、「絶命確認の槍」です。何ということか。

克明に書きましたので、残酷な思いを抱かれたかもしれません。でもこれが主の味わった十字架刑なのです。その刑の果てに主は、詩編22編を叫びます。「神に見捨てられる」ことを詩編を借りて訴える主です。十字架刑は、主も納得して受けられた刑でした。ご自身も三度、受難を予告しておられました。それでも主は思わず「どうしてですか、なぜか」と問うのです。それほどに十字架刑は主にとって、苦痛と恥辱を味わう刑だったのです。

ところが主の最期直後に、不思議が起こります。「神殿の垂れ幕が裂けた」のです。神殿の垂れ幕とは、聖と俗の仕切目。仕切目が裂けたことは、聖なる方からこちらに道が開通したという意味です。聖なるイエス・キリストがその身を捧げ、不甲斐ないこの世を顧み、道を整えて下さったのです。それが私たちの行くこの一週間の歩みなのです。