4/9 徳山の献花。the 春という感じです。
4/9 徳山の献花。the 春 です(こちらも)。
昨日、本日とも益田、六日市、徳山では礼拝が行われました。
礼拝後には徳山で、昔の宣教師直伝というスパゲッティを頂きました。
今週、来週共に礼拝、集会は以下の日程で行われます。
4/11(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。
4/14(金)19:00 徳山 受苦日礼拝
4/15(土)13:00 益田 小浜礼拝
14:00 益田 元町礼拝
19:30 六日市礼拝
4/16(日)10:45 徳山 礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【マタイ福音書27章45節-56節】
「受難主日」を迎えています。「枝の主日」ともいいます。簡単に言えば「枝の主日」は王としてのイエスさまを、「受難主日」では苦難のイエスさまを覚えるのです。改めて主の苦難を覚えるという趣旨でこの日課を選んでいます。聖書の場面はまさに主の最期の時です。
「十字架」刑は死刑の一つです。死刑とは「罪人」の命を奪う刑罰です。が、人は残酷です。命を奪うその刑の過程に「苦しみ」を付加することも考えた。その点で考えれば、十字架刑は「罪人」の心身を長く苦しませる刑。心への打撃は、衆人環視のもとでのむち打ち、衣服はく奪、木を負っての刑場への行進です。身体への打撃は、手首へ打釘。動脈は避けますが痛覚が破壊され、痛みは薄れるようです。ただ出血します。そして木に吊るす時に、自重で肩関節が外れる。脱臼の痛み、横隔膜圧迫の呼吸困難、渇きから最期は呼吸困難で死ぬ。脇腹の槍は、「とどめの槍」でなく、「絶命確認の槍」です。何ということか。
克明に書きましたので、残酷な思いを抱かれたかもしれません。でもこれが主の味わった十字架刑なのです。その刑の果てに主は、詩編22編を叫びます。「神に見捨てられる」ことを詩編を借りて訴える主です。十字架刑は、主も納得して受けられた刑でした。ご自身も三度、受難を予告しておられました。それでも主は思わず「どうしてですか、なぜか」と問うのです。それほどに十字架刑は主にとって、苦痛と恥辱を味わう刑だったのです。
ところが主の最期直後に、不思議が起こります。「神殿の垂れ幕が裂けた」のです。神殿の垂れ幕とは、聖と俗の仕切目。仕切目が裂けたことは、聖なる方からこちらに道が開通したという意味です。聖なるイエス・キリストがその身を捧げ、不甲斐ないこの世を顧み、道を整えて下さったのです。それが私たちの行くこの一週間の歩みなのです。