2024年5月21日火曜日

5/10.18.19 西宮、防府、徳山、外清掃 

 

 5/10(金)主任牧師を務める西宮教会に出かけてきました。

 牧師が非在住の教会ですが、信徒の方々のご奉仕によって美観が整えられています。

 5/19(日)防府の礼拝堂。ペンテコステの礼拝が行われました。


 5/20(月)あまりにも草木が伸びていたので、午前中の涼しいうちに伐採。
 5/21(火)朝の礼拝堂。徳山でした。

 久しぶりの更新となりました。

 今週以降の予定は下記の通りです。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

5/28  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

6/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

使徒言行録2: 121 (214)

 説教              「目を外に向けよ」 

    「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」を迎えました。クリスマスは神さまを、イースターは主イエスを、この日は「聖霊」を覚えます。それでは、「聖霊」が何を行ったことを覚えるのでしょうか。弟子たちと市井の人々の間の「見えない壁」を取り去り、「自己完結」の弟子たちを、「伝道」へと向かわせたのです。「教会の誕生日」とも言えるこの日の箇所を見たい。

 

    「聖霊降臨祭」の用語は聖書にはありません。事は「五旬祭」に起こりました。日程は初夏で「五十日後祭」です。「過越祭」を起算とし、「エジプト脱出」から50日後、伝承では「十戒授与」と「麦の収穫」も覚えました。レビ23章では、人々は「初穂のパン2つ」と諸々を捧げる規定があります。その状況でエルサレム参拝の人々は唐突なことに直面しました。

 

    「ナザレのイエスの残党」が、「自分たちのお国言葉」で「神の偉大な業(11)」を語っているのです。内容は、「五旬祭の由来」つまり「神の恩寵と人々の不従順」かと。「行軍の厳しさ、モーセの執り成し、恩寵としての十戒授与」と思われるものを、弟子たちは実感を込め語ったのです。 「出エジプトの人々」と自分たちを重ね合わせた「証し」なのです。

 

    それは「地方人」には福音でした。公式かつ一語の翻訳「七十人訳聖書」は、50年後です。神の働きを聞いた人々は、中には「あざける」行為に走るものもいましたが、概ね好意的に受け止め、教会の誕生となります。神と主イエスは、弟子たちを用いて働かれたのです。「神さまを伝える」その形はそれぞれです。日々の生活で、それを行いましょう。


2024年5月1日水曜日

4/27 28 柳井屋根補修と防府

4/27(土)柳井チャペルの屋根補修が終了しました。
一枚銀となっています。錆止め剤が塗られました。

以前はこのような形でした。


 4/28(日)防府の礼拝堂です。いつもの形、いつもの方々、いつもすばらしい。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

5/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

5/7  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

5/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ ヨハネ 15: 1 8 (198)

 説教              「つながりに支えられる」 

    「ぶどうの木」を通して、主は弟子たちや私たちとの「つながり」を語ります。どういう「つながり」か。ヨハネ福音書は、14章から「つながり」がテーマの「告別説教」です。内、14、16章は「み国の約束」17章は「祈り」と、抽象的です。15章の「ぶどうの木」は、想像しやすい話ですが、物騒な「剪定、切除」が登場します。「整える」つながりなのです。

 

   ただ「心を騒がせる(141)」弟子たちに「剪定、切除」は、無謀と思えます。既にユダは離れ(1330)、ペトロの裏切りの示唆の(1338)中、「切り離す」が弟子たちの与える動揺は、察して余りあります。実は「取り除く(2)」は、「風を入れる(持ち上げる)」の意味です。乱伐でなく、結実しない枝の「いのちの回復」、ただ「タイミング」の悪さは言えます。

 

    主の意図は、「個々の弟子たち」の切除でなく、「弟子たちの個々」の切除と見ます。「私たちの誰か」ではなく、「私の一部分(罪)」です。やがて弟子たちは、特にペトロは自身の罪に気づかされます(21章)。そもそも、弟子たちが「離れる」ことは、主が「今はついて来ることができない(137.35)」と明言します。「気づく」ための厳しい言葉なのです。

 

   弟子たちはこの後、主のもとを去ります。その期間を主は、「枯れ枝、実らない枝」を「剪定、切除」する時とします。「焼かれる(7)」は気になりますが、主は「一人の滅びも望まない(316)」ため、十字架に向かいます。弟子たちは、自身の「枯れ枝」が主により除かれ、「いのちが回復」されるとに気づき、戻ります。生涯、成長するのです。「望(7)」みたい。