2021年8月31日火曜日

8/28.29 礼拝と野のユリ

 

8/29(日)の防府チャペルの様子です。

手前のお花は、教会の敷地内にある納骨堂のそばに咲いたユリ。

外に見てみると、つぼみの状態のユリがすっくと立っていました。

ユリはキリスト教会では「新しい命」「復活」の象徴となります。

それが納骨堂のそばに咲くことの意味をかみしめています。

 

今週、来週の予定は以下の通りです。

9/1 水曜日  六日市チャペル礼拝 ※ 予定です
 
9/4  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
9/5  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝 
 
9/8 水曜日  六日市チャペル礼拝 ※ 予定です
 
9/11  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
9/12  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝 
 
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 マルコによる福音書7: 18, 1415, 2123 (新共同訳聖書、新約74ページ)

 説教            「ルターも病に苦しんだ」 

 この世全体が「病に苦しむ」状況が続いています。「隣人愛」の具現化が教会に託された使命ですが、その遂行は、正直に言えば、悩みは尽きません。今春「ルターのペスト書簡」が翻訳、「隣人愛」に基づく公衆衛生が示さました。ルターも少なくとも「第五派」のペストを体験しました。「生活習慣病、結石、痛風」もあります。日課の大枠は「公衆衛生」、出エジプトの旅路で定められた「規定」が、宗教者たちに恣意的に用いられていたのです。主の問題提起はそこでした。

 

 マルコ福音書では既に3章で、主に「気が変だ(21)」や、「蠅の王(22)」という見方が確定していました。ご実家から、身内の人々が取り押さえに来て、家族も心配するほどでした。日課ではついに、査問する人々がエルサレムから来ました(1)。名目上は、公衆衛生の規定遵守を迫る立ち位置で、実態はいわゆる「手洗い警察」でした。距離も考え物です。彼らの出発点はエルサレム、到達点はガリラヤ。約100キロの道のりがありました。

 

 律法の衛生規定は、元来、旅路の中で同胞や自身を守る意味合いで、隣人愛のための規定でした。しかし主が見たのは、自身らのため長きを踏破する学者たち、及び、学者たちに経費を付けて送った指導者たちの姿でした。ここに隣人愛はなく、むしろ規定を他者に、自分本意のため使う、愛から離れた姿がありました。主がイザヤ書を引用された(6-7)その根底には、彼らとその背後にいる人々に、愛の欠如を問う思いがあったのです。

 

 15節「人の中から出てくるものが人を汚す」21節「人間の心から、悪い思いが出てくる」という主の言葉に向かい合うとき、私たちの心に真の悔い改めが導かれます。22節に記載の具体的な事柄は、人としての生に不可分と言えます。これらを持ちつつも、「学者たち」は主や弟子たちに、正しさを求めていました。改めて私たちは、隣人愛の前提を思い出したい。「互いに愛し合う」その前提は、主イエスが私たちを愛される。そこなのです。

 

 

 

2021年8月22日日曜日

8/21.22 礼拝と献花、外のオクラ

 

 こちらは、徳山チャペルの外にあるオクラです。

収穫のたびごとに、近隣の枝を切り落とすのは少し、心が痛みます。

こちらは、徳山チャペルの本日の献花。

ケイトウの花。毛糸のようです。

今週、来週の予定は以下の通りです。

8/25 水曜日  19時 六日市チャペル礼拝 ※予定です
 
8/28  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
8/29  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝
 
9/1 水曜日  六日市チャペル礼拝 ※ 予定です
 
9/4  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
9/5  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝 
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 説教            「神さまは人間の破れを直す

 「全てに時がある」と、旧約コヘレト(1036)は語りました。自身や身近を思いつつ、この言葉に日々出会う私たちがいます。この夏、通読したヨハネ6章には、一つの共通したテーマがあります。それは「強から弱へ、大から小へ」という人間の自然な状況と、そこに変わらぬ注がれる主イエスの愛の眼差しです。「コヘレト」という箴言のみは、自身の状況を目の当たりにさせられますが、それを共に受け止めて下さる主の思いを今日聞きたい。

 

 それで、聖書が語る「強から弱へ」の2つのことを見ましょう。一つ目は「主を求める人々の数」です。6章冒頭は「五千人の給食」でした。集う人々の求めは、目に見える奇跡でした。続いても「湖上歩行」。当初、主は「奇跡」の要望に向き合っていましたが、中盤から後半では「心の満たし」を語るのです。集った大勢の人々は徐々に離れていきます。そして今日の聖書では、12人ではない他の弟子たちが「実にひどい話だ…(60)」と呟くのです。

 

 二つ目は、「弟子の心」です。日課後半では、離れ去る弟子たちの姿とは対照的に、ペトロの「私たちは誰の所に行きましょう」(私たちの居場所は、主の他にない)という言葉が記載されています。しかし、この後の展開はご承知の通り、この言葉の真逆を行くペトロたちでした。しかもこのヨハネ福音書は、ペトロの体たらくを克明に描写するのです。それぞれに、強い時があった人々や弟子たち、ペトロたちでした。けれども、凋落をするのです。

 

 旧約聖書の神さまは、「熱情の神」であり「怒る方」でした。いわば「峻烈な父」の像があります。一方で主イエスはその世界観の中で苦しむ人々と共にありました。加えて、これは主独自のものでしたが「峻烈な父」に「叶い得ない子ども」を取りなす「母」の像をも見て取れます。「弱い所に働く神の愛(2コリ129)」の表れなのです。時の流れの中で、自身や近しい者の「弱さ」を見つめざるを得ません。そこに注ぐ、主イエスの眼差しを思います。s。