2015年6月28日日曜日

6/28 礼拝とメッセージ






写真は、宇部教会の聖壇と献花です。

本日は、西中国地区の講壇交換で、水原牧師は宇部教会、
甲斐牧師は下関、厚狭教会での奉仕でした。

メッセージは以下の通りです。

来週から、また徳山を中心とした更新に戻ります。



【マルコによる福音書316節】
時は安息日でした。会堂には片手の萎えた人がいました。「萎える」とは水気を失った植物に由来する表現です。私たちは其々の経験の中で、心も体も「萎える」という経験があります。今日、「どうして、どのようにして」の問いには答え得る。だが「なぜ私に」の問いには答えを見出し得ないのです。人には応えることは出来ず、神さまにしか答えを見出し得ない問題を抱えて、この人も会堂のすみにいたのでしょう。

病には当時、厳しい蔑みの目が投げかけられていました。会堂にいた人にも蔑みの目が降るのです。主はこの人と出会い「真中に立ちなさい」と宣言されます。人目のない場所の癒しも出来たはずです。片隅の人を真中に立たせる。主はなぜこのようにして癒しを為したのか。主は、ご自身に注目を浴びせる意図があったと考えます。

主は癒します。そしてその行為の結果、「イエスを殺す相談」が始まってしまうのです。この行為の結果、主の十字架への道は始まって行く。しかしそれで良かったのです。「一粒の麦は死んで多くの実を結ぶ」。自身という「一本の麦」は死に至ることになっても良い。多くの実が結ばれることになる。主は彼を会堂の真ん中に立たせます。だが癒されたの彼の心の中には、これ以後主が立ち続けることになったのです。

主は、全てを引き受けられるのです。私たちが自身だけで種々の問題を引き受けることを望みません。だから「手を伸ばしなさい」その言葉は彼だけに留め置くのは勿体ないのです。私たちの手、心、肩には何が乗っているでしょうか。私たちはその手を伸ばし、主に届けたい。主の方から、既に私たちに手が述べられている。その確信を持ちたいのです。それが「礼拝を守る」意味です。礼拝で守られることを覚えたい。



6/21 六日市合同礼拝 画像のみ






2015年6月14日日曜日

6/14 礼拝と献花


 裏の雑木林がなくなり、明るくなった礼拝堂と本日の献花です。

 雑木林があるころは、聖壇が照らされることはなかったのですが、
 このように、献花が照らされています。

 本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
 礼拝後には、それぞれのチャペルで愛さんやお茶による交わりが
 行われました。

 来週は、六日市での合同礼拝となります。
 徳山、柳井、防府の方々が、六日市に集います。
  徳山、柳井、防府での礼拝はお休みとなりますので、お覚えください。

 6/21  10:30 六日市上集会所にて。

 本日の説教要旨です。

 

【マルコによる福音書2章18-22節】
今日、断食とは健康法の一つとされています。それは主に、「自身のための断食」です。しかし元来「断食」とは、自己と他者のための意味を持ちました。食断ちによって自身の生きる意味の確認、自身の食断ちの金銭を他者のために献金するということでした。ルーテル教会では「断食」は未制定ですが、他者への関わりは皆さん覚えておられます。先の震災では「おすそわけ」が為され、四旬節に為す方も居られます。

聖書時代、そもそも断食は、自己抑制と他者への愛の現れを通して、神さまのお姿を覚えるというものでした。しかし主の時代、断食が裁きと自己顕示になってしまいました。「自分たちは断食中、なぜ弟子たちはしないか」と。主の敵対者たちが言おうとする趣旨は、主の監督不行き届きを責めつつ、自身の優位性を強調するものでした。

対する主の返答は、自分たちは断食をし得るが、出来ないというものでした。なぜなら「花婿が共にいる」神さまが全ての人に共に在るのです。主以前のユダヤの神理解は、怒りや憤りの神さまでした。自身を節制し、他者に恵むことで得られる恵みです。しかし主の神理解は恵みの神さまです。自身にも他者にも等しく恵まれるのです。

なぜイエスさまは、当時の宗教者に敵対したのでしょうか。本質を忘れる宗教者への警告です。断食の本質は、神さまの愛を覚え、隣人への愛を行う事です。しかし彼らは断食の事柄にこだわり、他者を責め、自身を誇り、神さまを忘れるのです。私たちには、断食の習慣はありません。断食という習慣をなさっている方は素晴らしいです。それに加えて、私たちは「断食」という、何かを断つ行為以上に覚えたいことがあります。主は命を断ち、その命を私たちに賜う。主が十字架で示した愛を覚えたい。

2015年6月7日日曜日

6/7 礼拝献花、メッセージ


本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
徳山は、先週来からの「裏ヤブ」剪定の良い影響が礼拝堂にあります。

明るくなった、というお声を頂いています。

本日の献花も、朝の光に映える青い花でした。
 礼拝後、徳山では愛餐、柳井、防府ともに教会の交わりが行われました。

来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。

 6/14(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 6/11(木)には、
     益田14:00~ 
     六日市19:30~ です。

本日の説教要旨は、以下の通りです。


【マルコによる福音書2章13-17節】
私たちの人生には「試練の時」が到来するものでしょう。試練とは当座は本当に大変なものですが、乗り越えた、終わった時には幸いを思います。今日の聖書は徴税人レビの物語です。彼は「収税所に座す」と表現されています。当時は、彼らのような職業は「売国奴」との評でした。それは、徴税人という権威を傘に着て、不当な徴収を行っていたからです。座すレビは、周囲の目線を「針」のように感じたでしょう。

レビは、主から弟子入りの言葉を頂きます。するとレビは主に従うのです。レビの鮮やかな転身が印象に残ります。伝統的なこの聖書の箇所の解釈は、「私たちも同様にしよう」というものです。かつて教会は「聖と俗」の言葉を多用しました。「人は俗世間に住む。俗世間をひと時離れ、教会という聖空間に来よう」というものです。分かりやすいものですが、主は果たして、その意図でお語りになったか。違うと考えます。

その後の主の行動を見たい。主はその後、徴税人たちと会食をします。とやかく言う人々は登場しますが、主は継続されます。主はレビを、聖なる集団に入れるとの意図は無かったのです。食事を共にする、すなわち自らがレビの世界に入ったということなのです。主がレビに近づいたということです。ここから覚えたいのは、聖なる生活をしよう、ではない。私たちは、今のそのままの心持ちで主を迎えることです。

本来誰もが、主を迎える立派な生き方は出来ないのです。しかし誰もが、主を迎え得るのです。主は誰のもとにも来られるのです。主は人の心をより好みしません。それが今日の聖書の一つのポイントです。もう一つあります。マタイの今までの徴税人としての生活は無駄ではなかったということです。生活の中で思う所は多くあったでしょう。厳しさがあるから恵みを知り得るのです。だから無駄なものは何一つない。かつての試練の時、主は私たちを助けた。だから今日の私があるのです。覚えたいですね。