2021年12月22日水曜日

12/18.19 礼拝と月夜と海

 

 これは12/20(月)の早朝、6時前後の月夜です。

 場所は徳山チャペル牧師室の外。

 12/19(日)防府チャペルの礼拝堂です。

 待降節第4主日仕様です。しかし牧師のストールは白・・・。

 12/18(土)柳井チャペルの礼拝堂です。

 赤…? 牧師のストールは白・・・。

12/18(土)柳井に向かう途中の、室積海岸。

冬の空ですね。

今週、来週の予定は以下の通りです。

12/22 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 (六日市の年内、最終礼拝です)。

12/25  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

        18時半 徳山チャペル クリスマスの夕礼拝

12/26  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

12/29 水曜日 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です。

1/1  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/2  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカ福音書  1:3955 (10)

 説教            「クリスマス、おめでとう」 

「お言葉通り、この身になりますように」が、受胎告知に対するマリアの答えでした。救い主の母としての出来事を受け入れる決意です。ただ、不遜ですが、「雰囲気に押された」とも言えます。時代の制約の中でしたが、当時「未婚の母」は、「姦淫」であり、「共同体への罪」として「石打ち刑(ヨハネ7)」に至ることでした。しかし神さまは、「出来事」「事柄」のみを示すお方ではありません。「逃れの道(1コリント10)」を備えられる方なのです。

 

その「逃れの道」は、天使の「み言葉」にありました。「親類のエリサベトも妊娠している」が、マリアの「逃れの道」でした。神さまは「事柄を共に担う仲間」「周囲の目からの保護」を届けたのです。まず今日の冒頭ですが、マリアにはエリサベトに相談する思いが備えられました。と言っても、並大抵の旅ではありません。マリアの在所、ナザレからエリサベトの町までは直線距離で約100キロ。エリサベトに会うため、マリアはこの道を歩むのです。

 

重荷を打ち明け、ありのままを受容されることは、大切な喜びです。マリアにはエリサベトがそれでした。加えて神さまはエリサベトに聖霊を充満させ、現状を打破する言葉をいうのです。「あなたは、祝福されている」と。これこそ、マリアには心機一転の言葉でした。従来ならマリアは、神の名で「あなたは、罪人である」と裁かれる身でした。神さまは「裁き、罰を下す」方でした。この瞬間から、マリアにとって神さまは、希望の喜びになったのです。

 

神さまは「裁きや罰」ではなく、祝福を告げる方です。主も成長した後、胎内にいる折に受けたこの「祝福」を告げるものとなられたのです。多くを抱えている人が、主のもとに近づいてきました。主も、飾らず、ありのままでで多くの人を受け入れられました。その端緒が、マリアの行程にありました。長旅を成すことを通して、それが結果的にマリアを守ることになったのです。出来事に直面する時、「逃れの道」を、み言葉に聞く群れでありたい。


 




2021年12月14日火曜日

12/11.12 礼拝と礼拝堂

 

12/14(火)朝の礼拝堂となります。徳山教会のものとなります。

東側に位置している聖壇が、朝の光に照らされています。

こちらは12/12(日)の礼拝堂。防府教会のものとなります。

ずいぶんと、日没が早く、夜明けが遅くなりました。

午前五時ではまだ夜。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

12/15 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

12/18  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/19  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

12/22 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 (六日市の年内、最終礼拝です)。

12/25  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

        18時半 徳山チャペル クリスマスイブ礼拝

12/26  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      
        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカ福音書  :718 (105)

 説教            「清く、正しく、美しく なれない」 

「北風と太陽」というイソップ童話があります。今日の聖書の洗礼者ヨハネは「北風」のような存在でした。もともとヨハネは、「祭司家系」の出自で、裕福な家庭でした。しかし思う所の中で、実家を出ます。両親には、何が起きたか詳しく知りたい思いだったでしょう。けれど聖書は事柄の詳細を記さず、祭司家系のヨハネの、荒野での厳しい生と言葉を記載するのです。「北風」として、人々に「ぜい沢や偽善の衣」を捨て、清貧を求めるのです。

 

ヨハネの前に現れた「群衆(7)」とは、「宗教者」と判ぜられます。ヨハネは彼らに、神の怒りと、分与の生を語ります。「徴税人」「兵士」にも、同様に「分に応じた生」を説きます。「民衆(15)は、歯に衣着せぬ言い回しのヨハネを「メシア(15)」と考えます。しかしヨハネは、やがて来る主イエスが、自身以上に厳しい方と公言します。主が、「神さまの厳しさ」を語るから、「神さまに喜ばれる生を送ろう」というのがヨハネの語る言葉と思いでした。

 

実際「怒りの神」「神の憤り」は、旧約時代、ルターの時代、今の世も、様々に形を変えて用いられる様式かと思います。「罰を下す」という「神さま」ですね。ここでもヨハネは「浄化のイエス」が「聖霊による洗礼」を語ります。ただ、聖書が語る主のお姿は「苛烈な裁き主」かというと、違いました。直後の場面では、「神の愛の言葉」を受ける主の洗礼の場面が記載されます。北風と語られていた主が、実は「太陽」のようなお方として登場するのです。

 

「言行不一致」であった宗教者たちには、主もその舌鋒を向けます。しかし、「主への興味」を抱いた徴税人ザアカイへの主の眼差しを、ルカ福音書は描いています(19)。また、何かの理由で手元から分かたれたもの「羊、銀貨、子ども」への、神の愛の眼差しをも描かれています(15)。この世の旅路を歩む私たちは、決して「清貧」の生活を送り得ないことを知っています。その中で、旅人を心から支える主イエスのみ言葉を支えとしたい。