待降節第二主日の防府。礼拝前ですので、アドベントクランツのろうそくは
まだ一本分しか短くなっていません。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
12/8 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
12/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
12/15 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
12/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
「この道は誰が歩む道?」
この12月から礼拝で読む「ルカ福音書」には、歴史的な出来事が要所に登場します。意図は「人の営みに、神さまが関わる」ことです。言い換えれば、「神さまは私という一人の営みにも関わられる」のです。強い確信、或いは何となくの思いでも、「神さま」の存在は、過去に思い出されると思います。さて聖書本文。「ティベリウス帝の治世15年(1)」は、紀元後29年です。この年、洗礼者ヨハネや主イエスが活動を始めたということになります。
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて自身の働きを述べます。「荒野の声」は、「複雑な地形」が平坦になることを求めています(4-6)。自身はその声というのです。聖書冒頭の人名はその「複雑な地形」と解せます。聖書冒頭の人々は、いずれもヨハネや主イエスのご生涯や、その死に関わる人々です。それぞれが近接的、間接的に権威を行使し、ヨハネや主の前に「山として」立ちはだかり、ヨハネや主を「谷底に」落とすことになるのです。
ヨハネが思う「声」とは、道徳的に正しい生き方でした。時の領主ヘロデのような、欲望のままに生きる生き方からは離れる。或いは、時の一部の宗教者のような、言行不一致の歩みを捨てる。そういう「清く、正しい」生き方を自身は送り、為政者に要求したのです。その結果、それが一因でヨハネは眼を閉じます。確かに「清く、正しい」生は間違いではありません。しかし「清貧」「道徳的正しさ」とは異なる「声」を主はその生で告げられました。
それは「持ち物を差し出す、ありのままの」歩みです。十字架直前、エルサレムに入られる際に、人々は自分の服や、道端のシュロを主に差し出しました。いずれも野生ないし、回収可能です。「道を備える」ために、特別なものや出来事は主の場合は不要です。むしろ、自身の捧げものや賜物が、ありのままそのまま用いられます。神さまは、時にかなって私たちに「み助け」を下さいました。私たちの賜物も、実は誰かに、何かに用いられるのです。