2022年12月27日火曜日

12/24.25 クリスマス礼拝

 

12/27(火)の徳山チャペル礼拝堂です。

12/24(土)イブ礼拝、12/25(日)のクリスマス礼拝と、大勢が集いましたが、

この雰囲気も好きです。

12/25(日)クリスマス礼拝。

ポインセチアを引き取るのを忘れていました。

12/24(土)クリスマス礼拝 柳井。
12/24(土)朝5時30分。

抗原検査を、今日、やらなければならないのか。

今日だから、やらなければならないのか。自問自答。


今週、来週の予定は以下の通りとなります。

12/28 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

12/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/1 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/4 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝

1/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/8 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 ヨハネ 1: 114(163)

 説教              「神の言葉を頂く」 

教典としての聖書は、時代と状況の中で多様な解釈をされました。その本質は、「存在の肯定」です。国家の危機(一人ひとりの不安)時に、「神は全てを良しとされた(創世記)」という使信が、人々の原動力となったことでしょう。ヨハネ福音書の冒頭は「創世記」を土台に置いていると言われます。「創造と、存在の肯定」というテーマが共通するためです。この日、神と主イエスにより、「ヨセフとマリア」と「私たちに」告げられることを聞きましょう。

 

この日の日課は謎めいています。要点は「神と共にある言が、万物を成した(1-3)」。抑揚なく、淡々と告げられます。これが創世記では「〇〇あれ(存在せよ)!」と強調されます。私たちも、周囲も、意味なくそこにある、ということはありません。個々に「そこにあって良いのだ、あるべきだ」という神さまの強い思いがあるのです。クリスマスの夜、そのメッセージが必要だったのは、ヨセフとマリアの夫婦と言えます。悩みながらの旅路の出来事です。

 

「なぜ神は自分たちを御子の親として選んだのか」聖書は夫婦の葛藤に触れません。しかし夫婦の心に、深く残る疑問と言えます。しかし時は過ぎ出産前、ベツレヘムは喧噪中。突如の住民登録令で、不意の旅費を求められた人々。そして住民登録とは、要は将来の徴兵・税の制度設計準備。誰もが我が事を案じ、妊婦と夫を気に掛ける人は無かったのです。そして出産は、納屋か家畜小屋での出来事でした。「何なんだろう」だったでしょう。

 

しかし出産後即座に、羊飼い(ルカ)、東方の賢者(マタイ)が来訪し、出産時の不思議なしるしを興奮して告げたのです。彼らが見た出来事に共通するのは「光」。「光あれ」と語られた神は、自分たちとこの幼子の存在を良しとされている、と受け止めたことでしょう。故郷を遠く離れた地中海パトモス島に、伝説では幽閉中の福音書記者ヨハネも、主の古事に生きた一人でした。「万物」の中にあなたもいます。私たちを照らす光を想起したい。

 

 




2022年12月20日火曜日

12/14.17.18 六日市の雪、柳井、防府

 

12/18(日)防府です。説教題にワンポイントのクリスマス。

このお気づかいが、クリスマス。

 12/17(土)柳井です。

 今年は待降節第4主日が、待降節第4主日として行われました。

 12/14(水)の六日市。リアルな雪。こちらは危険。
12/14(水)の六日市。タペストリーの雪。こちらはほのぼの。

島根県山間部は、雪の現状と聞いています。

幹線道路は除雪されますが、幹線道路から家への道は、各戸の除雪作業ということです。

明日(12/21)の雨が、幾分かの助けとなることを願いますが、

翌日以降の路面凍結もまた心配。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

12/21 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

12/24  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

        18時半 徳山 クリスマス・イブ礼拝

12/25 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

12/28 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝

12/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/1  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

 マタイ1:1825(1)

 説教              「人を活かす正しさ」 

マタイ福音書の結びでは「世の終わりまで共にいる神さま(2820)」が告げられます。「世の終わり」の意味は二通りありますが、少なくとも私たちは、日々の生活を支えられる神さまを思い描きます。何と、様々なことがある日々でしょうか。「共にいる神さま」は何をなして下さるのか。私たちは、孤独でなく、助けがあり、祈る対象がある、等と言えます。祈り、覚える神さまとは、愛と平和の方であり、少なくとも「怒りの神さま」ではない、と言えます。

 

ところが新約聖書の時代は、「怒りの神さま」が信じられていました。神さまのお名前の前に、自らの不正を恥じ入り、驚愕した人もいます(使徒5)。主の時代の宗教者たちも、民衆心理の中で、それを利用しながら生きていたのです。人々も、神さまの怒りを心に覚えつつ、生きていたと思えます。その世相に生きる一人がいました。その名はヨセフ。彼は絶望的な先行きの葛藤を誰にも相談できず、精神的な死を突き付けられた状況でした。

 

婚約中の妻の「一緒になる前の(18)」妊娠。この事例を人に相談すれば、妻の先行きはヨハネ8章の通り「石打刑」。月が満ちれば事実は鮮明で「石打刑」。妻一人を野に送れば、ヨセフの良心は苛み、妻は流浪死です。ヨセフの選択は、律法に照らし合わせれば、全く正しくありません。「密かに縁を切る(19)」とは、「表ざたにしない(19)」、公に離縁訴訟(24)せず、マリアをどこかで守り、いざという時には自分が非難される決断でした。

 

しかしそれをマタイ福音書は「正しい(19)」と表現するのです。妻と子の命を奪わず、守る決断が「正しい」とされるのです。マタイはその直後、天使の来訪を通してヨセフを支え、ルカ福音書では「偶然のように見える助け」が為されるのです。天使は「インマヌエル」という預言の言葉(イザヤ714)を上げて、ヨセフに「神、共にある」と伝えます。「人を活かす」決断の中で、神さまが必ず良い知恵を備え、出会いと導きを備える。それを信じましょう。