2018年8月26日日曜日

8/26 礼拝と献花

8/26 徳山礼拝献花です。
教会には百合の花。百合の花といえば教会。
そんなことをつぶやきながら撮影しました。
ご家族を思いながら捧げられた今日の献花です。

1 本日の礼拝には、O家から欠席の連絡を頂いていました。

2 8月一杯は教会の昼食(愛さん)が休みとなります。
  今日はコーヒーと茶菓でしばしの礼拝後の語り合いを行いました。

3 8月中旬に、呉市安浦のボランティアに出席された教会の方がたが、
  ご自身の経験を分かち合っておられました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

8/28 火曜日 牧師 呉の被災地で奉仕


8/30 木曜日 牧師 呉の被災地で奉仕

9/1  土曜日 13時 益田市小浜礼拝 しばらくの間休会といたします。 
        14時 益田教会礼拝 
        19時 六日市礼拝
※次週の9/8の益田、六日市礼拝は、牧師の大阪出張のため
 家庭礼拝とさせて頂きます。ご了承ください。

9/2  日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【マルコ福音書6章45-52節】
 主のお言葉によって、ガリラヤ湖で弟子たちが嵐に出会う話です。一度目(マルコ435)の時も主が「向こう岸に渡ろう」と言われた言葉が契機でしたし、本日も「強いて船に乗せた(45)」とありました。主にどのようなお心があったのか、察するヒマもなく弟子たちは今日も船に乗るのです。案の定、嵐が弟子たちに襲い掛かります。しかもその船には主が乗って居られません。弟子たちにしてみれば、とまどう間もない苦境です。

 それが起こってしまうのが私たちの人生です。一つの出来事を受けて、その出来事を受け止め、受容する間もなく、次々と困難が襲い掛かるのが私たちの日々です。主はそのような弟子たちに近づき、聖書の伝統に従った三つの平安要素を告げます。「傍を通る、私だと言われる、安心せよの言葉」です。これらは、平静時ならば神さまの臨在を感じうるのです。しかし混乱の渦中にいる時には、信仰以上に恐れが先立ちます。

 しかし、教会というところは「それで良い」ことを告げる場所です。仮に教会が「神さまが傍におられるのだから、安心しなければならない」とでも語るとして、実際出来るかというと無理な話です。不安には怯え、未来には疑念を感じるのです。弟子たちがそうでした。み言葉を常々頂いておりながらも、ここで見事に動揺の姿を示すのです。でも「それで良い」のです。平静さを取り戻した時、主が支えて下さったことを思い起こし、後代の者に伝えた。それが私たちが今読んでいる福音書の原型なのです。

なぜ主は弟子たちを困難に誘うのか、という問いもそこに着きます。要は「人間は、動揺し、不安を抱えつつも、前を向いて生きる」生き物だということを弟子たちの姿を通して示したいがためなのです。動揺や苦難のたびごとに、主はその人に関わって下さいます。「堂々巡り」という言葉が先週の冨浦牧師によっても語られましたが、まさにそうですね。信仰者は、強くなくて良いのです。むしろ、強くないわたしを強めて下さる神さまを覚えながら生きる事、それが私たちが理想とする信仰者の姿なのです。
 

2018年8月19日日曜日

8/19 献花と礼拝後バーベキュー

  8/19 礼拝の献花です。
 ひまわりが夏を思い起こさせます。
  礼拝後の愛さん。これはその用意のおにぎり作成中です。
  肉をあぶっているところ。
焼いているところ。
 
1 本日の礼拝には、K家、Fさんから欠席の連絡を頂いていました。

2 H家の御子息、Tさんのお孫さんなど、大勢が集った今日の主日でした。

3 礼拝の中では、いわゆる「初盆」を迎えられたIさん、Tさんのご家族への
  祈りがなされました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

8/21 火曜日 午前 牧師 呉の被災地で奉仕

        夕方 大阪に移動
8/24 金曜日 一日 牧師 呉の被災地で奉仕予定

8/25 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 しばらくの間休会といたします。 
        14時 益田教会礼拝 
        19時 六日市礼拝

8/26  日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

8/5 8/12 礼拝と献花

  8/5 益田合同礼拝の献花です。
 朝移した写真ですので、日光は礼拝堂には差し込んでいません。
  8/12 徳山礼拝の献花です。
 夜移した写真ですので、何か厳かな雰囲気が漂っています。

1 本日の礼拝には、Nさん、Mさんから欠席の連絡を頂いていました。

2 大阪柏原からの帰省されたご家族が、本日の礼拝には集われました。

3 8/13-31まで、徳山礼拝所が、西日本豪雨災害のボランティアセンターと
  して稼働を始めます。


今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

8/13 月曜日 牧師 呉の被災地で奉仕
   教会員3名とも協働

8/17 金曜日 牧師 倉敷の被災地で奉仕予定

8/18 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 しばらくの間休会といたします。 
        14時 益田教会礼拝 
        19時 六日市礼拝

8/19  日曜日   11時00分 益田合同礼拝
    礼拝後、バーベキュー


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。

【マルコ福音書66-13節】
 数年前、森勉牧師がご召天になられました。その御伴侶は若い頃、柳井Cにて牧師と共に生活しておられました。戦後間もない頃、牧師家計も十分ではなかったそうです。しかし「困ったな」と思う時に、かならず「米、おかず、野菜」などの差し入れがあったそうです。その事柄は、今この徳山、柳井Cでも私自身が実感している事柄です。「神さまは、今の私に必要なものを必ず備えられる」その事柄が今日の聖書で語られます。

 主が、弟子たちを各所に送るというのが今日の聖書。送る際、弟子たちの手には一本の杖のみが持ち物として託されます。その他、およそ旅に必要だと思われるものは全て、持って行ってはいけないものとされます。私たちの日本では「備えあれば憂いなし」の言葉があるように、出来るだけ備えて行くことが肝要とされています。「何とかなる」という事柄は分かるのですが、その根拠がない所に、小心者の私などは不安を覚えます。ただその不安は、「滞在中」の教えで幾分かは和らぐものとなるのです。

 立ち寄ったら「一つの家に留まる」とは、一つの家に自分なりの誠意を尽くすということです。「足の埃を落とせ」とは、無理をしないということです。つまり「無理をせず、自分なりに出来ることをする」。それが、一週間という「旅」に出る私たちへの言葉なのですし、各所に送るに際して弟子たちに向けられた主の言葉なのです。そして「悔い改めを告げる」とは固い表現です。要は「神さまがあなたと共にある」ということです。

 弟子たちはそのように、神さまの愛を告げる旅を「無理せず、自分なりに」行うものとされていきました。旅から帰った弟子たちは「休むがよい(631)」の言葉を頂いて、主のもとに集います。一週間の私たちの「旅」の過程で、必要なものは必ず備えられるのです。「備えられない」と思える時は、もしかしたら「備えられない」ことが大事なことなのかもしれません。「神さまは別の方法を指し示している」という答えに繋がってくるのでしょう。主は私たちと共にあります。そして私たちを通し周囲に働かれます。