2023年12月20日水曜日

12/24 クリスマス・イブ礼拝の案内(休止)と、それぞれの教会

お知らせ

本年のクリスマス・イブ礼拝は、12/24の夕方~夜にかかります。

牧師はその時間帯、他教会での礼拝をおこなっています。

そのため本年のクリスマス・イブ礼拝(徳山)は、残念ながら休止といたします。

この時を心待ちにしておられた方には申し訳ありません。

上記事情をお含みいただき、ご家庭での時をお過ごしをと思います。 

牧師 水原一郎


徳山駅前のイルミネーション
出張した西宮教会
防府の礼拝堂
徳山の礼拝堂

ずいぶんと更新の日が開いてしまいました。

今後、12-1月の予定は以下の通りです。

12/23 土曜日 15時 柳井チャペルクリスマス礼拝

12/24 日曜日 10時 聖書の学び

       10時45分 徳山チャペルクリスマス礼拝

       15時 防府チャペルクリスマス礼拝

       徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝は休止です。

12/26  火曜日 六日市チャペル礼拝 週報を用いた家庭礼拝です。

       教会員宅には送付します。お入り用の方はお申し出ください。

12/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/31 日曜日 10時 聖書の学び

       10時45分 徳山チャペルクリスマス礼拝

       15時 防府チャペルクリスマス礼拝

1/2  火曜日 六日市チャペル礼拝 週報を用いた家庭礼拝です。

       教会員宅には送付します。お入り用の方はお申し出ください。

1/6 土曜日 15時 柳井チャペルクリスマス礼拝

1/7 日曜日 10時 聖書の学び

       10時45分 徳山チャペルクリスマス礼拝

       15時 防府チャペルクリスマス礼拝

説教の要旨は以下の通りです。

ヨハネ福音書 1: 19 28

 説教             「悲しみに向かい合う」 

     「洗礼者ヨハネの活動」は、4福音書に共通します。しかしこのヨハネ福音書だけは「ヨルダン川」という活動場所を、「ベタニアの近く(28)」と説明します。「ベタニア」は、ヨハネ福音書ではもう一度登場します。「ラザロ、マルタ、マリア」が住まう、エルサレム近郊の村です。地理的に、双方は異なる村と見なせます。これが示すことを本日聞きたいと思います。

 

    この「ベタニア」は「ベツ・アナニア(悲しむ者の家)」の略です。マルコ14:3の、「重い皮膚病の人が住む」記載から、様々な境遇の方が住む村と分かります。ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネの「悔い改めの告知と洗礼=神の顧みと愛」が、その村の近くで起きたと位置づけます。時代は病を「罰」と見ていましたが、ヨハネは時代とは異なる理解を示します。

 

    「神からの赦し」のヨハネの基に、「赦しから利得を得る」神殿祭司が使者を派遣します。

 「何様のつもりだ(22)」が本音です。「罪の赦し」の本家は自分たちという自負からです。その本音を悟ったのでしょう、ヨハネは「水で洗礼(罪の赦し)を授ける(26)」と、祭儀供物の「罪の赦し」を非難し、主イエスを語り、一切のことは「ベタニア(26)」のことと結びます。

 

   「祭儀宗教」は「富者/貧者」と、人を二分化し、結果的に、「ベタニア」を創造してしまいました。一方で「悲しむ者の家」とは言え、ベタニアの人々には日常があります。律法のの限界(≒社会保障の未達地点)に、洗礼者ヨハネもやがて主イエスも、思いを向けます。この聖書の教えの原点は、「悲しみを見る」主イエスです。私たちの悲しみにも同じです。




2023年11月21日火曜日

11/18.19 それぞれの礼拝堂

 

 11/19(日)の、防府の礼拝堂です。

 長かった緑の典礼色の時期も、来週でしばらくお休みとなります。

 11/18(土)の、柳井の礼拝堂です。

 こちらも、来週はクリスマスの入口、アドベントの準備が行われます。

 柳井の聖壇から、会衆席を見ています。

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

マタイ 25:1430 (49)

 説教               「誰かのためのわたし」 

    「天の国(14)」という言葉は、「天国/この世」を意味します。この日の聖書は、「この世」を対象とする話で、「神さまはこの世で私たちをどう見るか」、固く言えば「聖書の人間理解」となります。旅に出る神さまは、人々に「タラントン」を託します。これは、金銭単位です。「生涯年収」の意味で、1タラントンは邦貨では1-2億円でしょうか。その単位の金銭が、それぞれ違った5,2,1という単位で託されたのです。さて、この前提が意味するのは何か。

 

    「タラントン」というギリシャ語が「タレント(才能)」になりました。「才能」を「能力」とするとき、「私の力」となります。しかし聖書はそれを、「託される」ものとします。誰もが「基本の1タラントン」つまり、「私らしさ/私を私とするもの」を「与えられている」のです。5と1とでは、5倍の差がありますが、その基本値は同じです。「比較」は、私たちの常とする所かもしれません。「1」の時「5」は羨ましく思えます。この話も「羨む思い」が原因の出来事が起きます。

 

    5と2タラントンを託された人々は、それらを用いて商売を始めます。しかし1タラントンの人は、お金を用いず、ただ土中に隠します。その理由は、24節以降でこの人によって語られます。この人には主人が、「蒔くことをせず、散らさない」存在だったのです。1タラントンが託されていますが、そこに思いが向かず、主人を「気前が悪い」と見做して、「秘した」のです。「取り上げられる(28)」との結末は、「与えられること」を強調する主の思いでしょう。

 

    「隣の芝生は青く見える」と言いますが、神さまは「私らしさ、あなたらしさ」を唯一無二として備えて下さいます。「私の目に、あなたは尊い(イザヤ434)」のです。それを主は、話の中で「商売をする」「銀行に預ける」と表現します。商売も銀行も、自分と他者との関わりを大切にする働きです。自身では、自身の「尊さ」に気付くことは難しいかもしれませんが、神さまはそれを見て下さっています。「私らしさ」を持つ私を、大切と思われる神を覚えたい。

 




2023年11月16日木曜日

11/11.12 礼拝堂とメッセージ

 聖壇の色から考えると、11/5前後と思われる、徳山チャペルの礼拝堂です。

窓からの色を考えると、早朝かと思われます。

柳井チャペル礼拝堂。聖壇から会衆席を臨む。
防府チャペル記念堂。この一年で、随分ときれいにされました。

教会員のご奉仕です。

今後の予定は、以下の通りとなります。

今後、11月の予定は以下の通りです。

11/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/19 日曜日 10時 聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

11/21 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝

11/23 木曜日 西中国地区 信徒大会(るうてる秋の大会)

11/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/26 日曜日 10時 聖書の学び

        10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

11/28 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

12/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

12/3 日曜日 10時 聖書の学び

        10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

マタイ 25: 113 (49)

 説教             「終わりの先にあるもの」 

    「10人のおとめのたとえ」は、「天の国(1)」を例えたという設定です。聖書が「天の国」という時、対象は二つです。一つは「天国」、一つは「この世」。ここでは「この世」の話です。主の時代には、「終末思想・信仰」がありました。厳しい現状の中、「ご一新」を願う思想ですが、経過である「黙示文学」は「信仰を迫る、心煽る」ものです。しかし主は「ご一新の日(13)」は「婚宴」のような喜ばしい日、そこに向け「日々、為しうることをする」と話します。

 

「ご一新の日」は、「終わりの日」とも呼ばれます。「その日を確定」する動きがあります。自然災害や戦争などの事象を契機と言われた主の言葉から、現実社会を見る動きです。主は契機(マタイ24)を示すも、今日の個所では「誰も知らない(13)」と言われます。「目を覚ましていなさい(13)」とも言われますが、例えでは「花婿の到来」を待ちかね、乙女たちは皆、眠ってしまったのです。危機意識や不安は、人を疲れさせるという主の思いです。

 

  「終わりの日」には「地上の命の終わり」という意味もあります。実感はそれぞれですが、「終わり」は訪れます。「油を用意する」とは、その時に向けて備える(例えば、整理する)と言い換えられます。個々人にしか出来ないものです。「油を分けないおとめ」や「扉を締め切る主人」など、これは「意地悪」と見られる描写もあります。しかし「その日」に向け、「自分にしか出来ないこと」を行う勧めと促しとみます。地に足をつけて生きる、ということです。

 

  「終末思想」については、キリスト教内でも様々な理解があります。聖書や主による、多様な表現から来るものです。なぜ主が「終末思想を含む思想」を語るか。それは、一人ひとりの「厳しい現状」を見るがためと理解します。だから、煽情的表現を用いず、「婚宴の集い」喜びとし、花婿と結ばれると語ります。私たちも、厳しさを抱えます。その中で主は、一足飛びに「御一新」ではなく、「私たちが、今、出来る事」を見つめるように、優しく促すのです



 

2023年11月2日木曜日

10/28.29 宗教改革主日

 

 10/29 防府の納骨堂です。

 次週に向けて、周辺の環境整備が行われています。

 10/28 柳井の礼拝堂です。

 こちらは宗教改革主日の礼拝でした。

 礼拝説教は、以下の通りです。

 マタイ 22:3440 (44)

 説教               「限界を越えて」 

宗教改革者マルチン・ルターの功績は、「主イエスを身近にした」ことです。時の教会は、サン・ピエトロ大聖堂の補修のため、金を必要とし、ドイツでは「免罪符」が販売、ある修道僧は「神はあなたの祖先に罰を下した。その罰の期間はこの札を購入することで短くなる」と説きました。「赦し」が「金銭」で取引されていたのです。ルターの宗教改革は、商行為の禁止でなく、赦しへの「神様/主イエスの復権」でした。それは今日の福音にも重なります。

 

ファリサイ派が主に、律法の重要事項を尋ねます。主は「神を愛し、隣人を愛せよ」という「神の意思」と答えます。一般的に「愛」とは、自発、自然発生的な心であり、命令されるものではありません。「律法の重要事項」として「十戒の要約」を挙げたのは模範回答ですが、「愛の命令」の実行は、折々の状況です。ただ、引用元の申命記6章、30章を見ていく時に、「命令」という要素は無くなります。主は「愛の命令」を行ったのではない、ということです。

 

申命記30章は、「モアブ契約」、「出エジプト」当初とは様子が異なります。旅の目的地近くのモアブで、神はモーセを通し「心を尽くし、魂を尽くし…神を愛することが出来るようにして下さる(306)」と告げます。「愛しなさい」という命令ではなく、神さまの助力による愛の達成をモーセは聞き、告げるのです。主はその古事を踏まえ、「神と隣人を愛せよ」と一方的に告げるのでなく、「神を愛することができるようにする」生き方をなさいました。

 

「モアブでの神の言葉」は、「愛から遠い人の心」を知るための変化です。そして「神を愛する」ための助けは、「恐れの神」ではなく、「愛と癒しの神」を具現化させた主の働きそのものでした。ルターも「神の罰」に若年時はおののいていましたが、やがて、主イエスの言行に神の愛を見出し、「金築の神」でなく、「愛の神」を伝えたのです。私たちは「主イエスの愛」を見出せるでしょうか。私たちがそのために用いられることにも気づきたいのです。

 


2023年10月24日火曜日

11月の予定


 防府チャペルの納骨堂です。

 11月の召天者記念礼拝に合わせ、環境整備が進められています。

 季節は秋から冬に。出張の行き道、富士山が冠雪していました。



  徳山チャペルの花壇。3つ並んでいます。

今後、11月の予定は以下の通りです。

10/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/29 日曜日 10時 聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/31 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝

11/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/5 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

11/7 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

11/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

11/12 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

マタイ 22:1522 (43)

 説教                「心動く時」 

21節の主のお言葉に、22節「彼らは聞いて驚き、立ち去った」と反応します。それだけ、主のお言葉に力があり、「居たたまれなくさせた」のです。では、何がファリサイ派の人々の心に届いたのか。「神のものは神に返し、皇帝のものは皇帝に」が直接の要因となった言葉です。この言葉が彼らの心に触れるに至った原因、私たちへの関わりを聞きます。大切なのは「神のもの」とは、それを「返す」とはどのような意味があるかを想像することです。

 

「居たたまれない」とファリサイ派が感じたのは、同行の人々にも原因がありました。主から話を聞いたファリサイ派は、ヘロデ派と組みます。「呉越同舟」、「犬猿の仲」です。ファリサイ派は宗教団体、ヘロデ派は政治団体。前者はユダヤの古典に立つので、「異邦人」の支配を嫌う。後者はヘロデ王の意向を組み、時の政府やローマを支持する。双方が相互に非難する立ち位置なのですが、「新興勢力」である主を共通の敵とみなすのです。

 

「神の子ティベリウス」という「税金に納めるお金」が問題でした(19)。硬貨には、時のローマ皇帝が「神の子」と刻印され、ユダヤ国内で流通していました。それは、ファリサイ派には我慢できず、ヘロデ派には歓迎されることでした。しかしファリサイは一考し、主の納税に関する返答を、「言葉尻を捕える(15)」ために用います。納税を是と答えれば、ユダヤ国内での支持を失わせ、否と答えれば「ヘロデ派」に敵視させる心づもりなのです。

 

対する主の答えが21節です。「皇帝のものは皇帝に返す」とは、納税を容認する言葉です。ヘロデ派が喜び、ファリサイ派が目をむく回答です。ただし、「神のものは神に」が、ファリサイ派に刺さります。「被造物として、神さまに向かい合う」ことを示唆する言葉です。「言葉尻を捕え、悪意で主を貶めようとした」自身を吟味した結果、ファリサイ派は立ち去ったのです。私たちも「神さまのもの」とされています。神は向かい合い、顧みるのです。


2023年9月28日木曜日

9/23.24 下関、西宮、そして徳山

 

 9/25(月)誰かが植えた、アサガオが露地で成長しています。

 この時期なのに・・・。

 誰かが拾ってきた大きな松ぼっくりが、「ちっこいね」

 誰かが拾ってきた小さな松ぼっくりが、「おおきいね」

 詩の世界が広がります。


 9/24(日)現実に戻って西宮教会。役員会に出席しました。

9/24(日)下関教会。一日の移動距離は何キロだったのでしょうか。

今週、来週の予定は以下の通りです。

9/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/1 日曜日 10時 聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/3 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝

10/5 木曜日 16時半 会議 於:大阪

10/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/8 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

10/10 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

10/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/15 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 マタイ 20: 116 (38)

 説教                「何も無くなっても」 

この「気前のよいぶどう園」が本当に存在するとします。園主は神さまですので、園の経営は保たれます。しかし「一時間で、一日分が補償」されますから、貨幣価値は下落、労働者の勤労意欲は減退、一方で現金は溢れ、物価が上昇します。この話の要点は、「神さまはこの世の価値の基準をご存じだが、それを超えて見る」です。この話が生み出された背景を聖書から見、私たちが置かれている状況を踏まえ、この話を聞きたいと思います。

 

背景は、1916「金持ちの青年」と、1927「弟子としての勤続年数」です。いずれも「お金」「キャリア=経験、時間」を問う話です。特に弟子ペトロは「自分たちは何もかも捨てて主に従いました。何が頂けますか(1927)」と露骨です。対して主は、自身は「お金とキャリア」に思いを向けないと結論付けます。「えっ?」というペトロの落胆が伝わりますが、たとえ話(201)を通し気持ちは広がると察します。この話自体は、分かりやすいのです。

 

早朝からぶどう園で働く労働者たち(1-2)は、身近な所ではペトロたち漁師を指せます。主はペトロたちの「当初からの働き」を見られます。しかしたとえ話は、続けて募集をする主人の姿を記します。他の弟子、「女性の弟子」を招きます。主人は最後に、誰も雇わず目を掛けなかった「夕方5時の人」もぶどう園に招くのです。賃金支払いは、主人にとっての公平目線での同額が支給されます。最初の人は、同額を受け取り、落胆するのです。

 

弟子集団には、もとより理不尽なこの話が一層不条理に聞こえたでしょう。弟子たちには「主に従っている」という誇りがあったのです。ただ、「立場と状況」が変わればどうか。つまり「主に従う」の誇りが砕かれた十字架以後はどうだったか。「最後の者」の心持が理解できたと思います。「この世の価値観」に乗れず、外れ、疲れる時こそ、「主人の気前の良さ」に心を重ねたいのです。存在に重きを見る神と主イエスの視線は、私たちを支えます。



2023年9月5日火曜日

9/2.3 柳井、防府、徳山、六日市

 

 

 夏(休み)が開け、ようやく、日常が戻って来た日々です。

 記念会の日の朝。手前には二年前に召天された方を記念する

 アンスリウムという名前の観葉植物です。


今週、来週の予定は以下の通りです。

9/5 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝

9/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/10 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

9/12 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

9/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/17 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

マタイ 16:2125(32)

  「失敗に育てられる」 

21節「殺される」。主は、ご自身の殺害と復活を見据え、苦難を負われるのです。苦しみを前に、それを引き受ける姿は、旧約「苦難の僕(イザヤ42)」に見られます。ユダヤが国家としての体を無くしそうな昔に生まれた「苦難の僕」です。文字通りの「困難な現状」に向かう人に、「苦難の僕」は寄り添うのです。今日の聖書を一読すると「ペトロへの叱責」となります。叱責をした主の本心はどのようなものがあったのか。この日、それを聞きましょう。

 

今日の聖書の直前でペトロは、主をメシア(救い主)と告白しました。模範解答ですが、内実は主の理解とずれています。ペトロは「模範的統治者としてのメシア」、主は「苦難の僕としてのメシア」でした。主は今日の個所で「捕われ、殺される」と言われます。「模範者が逮捕され、殺される」とは、ペトロにはあり得ないことでした。だから「脇へ連れ、諫める(22)」の状況になるのです。対して、主は「サタン、引き下がれ(23)」と厳しく言われます。

 

ペトロを「悪魔」と罵る背景は何か。「苦難の僕」としてのご自身の生き方が「第一弟子」ペトロに受容されないことを残念に思ったのです。ただ「引き下がれ」という言葉には注意が必要です。「荒野の誘惑」の際、主は「退け、サタン(410)」と言われ、ここでは「引き下がれ」。「後ろに回れ、従え」という意味です。つまり主はペトロに、ご自身の生き方への再認識を訴えます。そこから「わたしについて来たい者は(23)」という言葉が生まれます。

 

ペトロは「捨てられない自分」を現します(24)が、主は「後ろに回れ、十字架を負え」と促します。「十字架」とは見せしめの刑具で、やがてペトロは、大言壮語した後に主を裏切り、否定します。裏切ったという事実を、ペトロは「苦難の僕」である復活の主と共に引き受けます。「苦難の僕」主は、今もなお私たちと共にもあります。失敗を、失敗と引き受け、受け止めたときに、進歩が見られるのです。私たちは、どういう失敗に育てられたでしょうか。


2023年7月21日金曜日

7/13-14.15.16 美祢(於福)と防府

 

7/13-14と、水害のあった美祢市でボランティアをしてきました。

活動した小学校にあった銅像。「希望」という題名です。

学校裏山からの土砂は、小さな小学校の敷地を埋めていました。

それを、様々な団体の方々と片付けてきました。

7/16 防府チャペルの礼拝でした。

梅雨明け間近と思える、午後の強烈な日差しがありました。

 

今週、来週の予定は以下の通りです。

7/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/23  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

7/25 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

7/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/30 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

マタイ 13: 1 9&1823 (24)

 説教           「置かれた場所で咲けますか?」 

「種蒔きの話(1-9)」には、「解説(18-23)」があります。解説では「道路/石地/茨」に蒔かれた「もの()」が示唆されています。「種蒔きの話」では、蒔く人は神さま、蒔くのは「み言葉」。人はそれぞれ、み言葉を「置かれた様々な状況」で受け止める話です。この手は、コヘレト書「人生の時(2)」に類型を見られます。コヘレトは、生に起こる/起こり得ることを「神の定めた時」とします。マタイはコヘレト以上に、厳しい現実を描くのです。

 

聖書は、私たち自身や、知人、隣人の現実、いわゆる「茨の道」と呼ばれる道を歩まざるを得ない人を思わせます。主の時代はどうか。私たちが実感するように、「道路、石地、茨」の生があります。若くして命の危機があり、貧しい所に育ち、成長が種々の要因で阻害される現実。主はそれをまず、例えを通して語りかけたのです。「自分は、私は」という思いが、湖のほとりで聴く人々の心に響いたと思います。「その私が、神さまにどう映るのか」

 

当初は「神のみ手の種」が、あらゆる土地()に蒔かれます。しかし人は「突然の出来事()」に妨げられ、「力添えを無くす(石地)」で弱り、「見通しが立たない()」日々を迎えてしまうこともある、主は例えでそれを語ります。しかし主は、話をするだけではなく、関わります。福音書で「道路、石地、茨」に蒔かれたような人と出会い、その人らしさが得られるよう関わります。私たちにも、人や事柄を通して「私たちの根、本質」に神は関わるのです。

 

主の関りの中に生き、生かされる私たちです。本編の最後には、「倍増する種」があります。ここから、神が蒔いたみ言葉や、み言葉を聴く人を増やすとの、使徒たちの時代の伝道や宣教に結び付けられます。ただ、元来の主は「人々の心に寄り添う」。いわゆる収穫は一つの結果論です。主が私たちをどこに蒔き、今の私たちを妨げるものは何かそれぞれです。私たちの窮状を主はご存じで、共に留まります。そこに立ち、他者のため生きたい。