2023年11月2日木曜日

10/28.29 宗教改革主日

 

 10/29 防府の納骨堂です。

 次週に向けて、周辺の環境整備が行われています。

 10/28 柳井の礼拝堂です。

 こちらは宗教改革主日の礼拝でした。

 礼拝説教は、以下の通りです。

 マタイ 22:3440 (44)

 説教               「限界を越えて」 

宗教改革者マルチン・ルターの功績は、「主イエスを身近にした」ことです。時の教会は、サン・ピエトロ大聖堂の補修のため、金を必要とし、ドイツでは「免罪符」が販売、ある修道僧は「神はあなたの祖先に罰を下した。その罰の期間はこの札を購入することで短くなる」と説きました。「赦し」が「金銭」で取引されていたのです。ルターの宗教改革は、商行為の禁止でなく、赦しへの「神様/主イエスの復権」でした。それは今日の福音にも重なります。

 

ファリサイ派が主に、律法の重要事項を尋ねます。主は「神を愛し、隣人を愛せよ」という「神の意思」と答えます。一般的に「愛」とは、自発、自然発生的な心であり、命令されるものではありません。「律法の重要事項」として「十戒の要約」を挙げたのは模範回答ですが、「愛の命令」の実行は、折々の状況です。ただ、引用元の申命記6章、30章を見ていく時に、「命令」という要素は無くなります。主は「愛の命令」を行ったのではない、ということです。

 

申命記30章は、「モアブ契約」、「出エジプト」当初とは様子が異なります。旅の目的地近くのモアブで、神はモーセを通し「心を尽くし、魂を尽くし…神を愛することが出来るようにして下さる(306)」と告げます。「愛しなさい」という命令ではなく、神さまの助力による愛の達成をモーセは聞き、告げるのです。主はその古事を踏まえ、「神と隣人を愛せよ」と一方的に告げるのでなく、「神を愛することができるようにする」生き方をなさいました。

 

「モアブでの神の言葉」は、「愛から遠い人の心」を知るための変化です。そして「神を愛する」ための助けは、「恐れの神」ではなく、「愛と癒しの神」を具現化させた主の働きそのものでした。ルターも「神の罰」に若年時はおののいていましたが、やがて、主イエスの言行に神の愛を見出し、「金築の神」でなく、「愛の神」を伝えたのです。私たちは「主イエスの愛」を見出せるでしょうか。私たちがそのために用いられることにも気づきたいのです。