2021年9月28日火曜日

9/25.26 徳山の礼拝堂と外の花壇

 

 9/26(日)徳山教会の玄関となります。

 この日は秋晴れの良い一日でした。

こちらは花壇。教会員の方が、プランターで育成をして下さっています。

夏の花ですが、秋になってもまだ元気。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

 
9/28 火曜日 10時30分 牧師 地区牧師会のため宇部教会へ
 
9/29 水曜日  六日市チャペル礼拝
 
9/30 木曜日 牧師 出張のため岡山へ
 
10/2  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
10/3  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      
       15時30分 防府チャペル礼拝
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 マルコによる福音書9:38-50 (新共同訳聖書、新約80ページ)

 説教             「逃れられない試練の中で」 

ここ二週間、マルコ福音書は「主の思いを悟り得ない」弟子たちの姿を記します。もちろん批判ではなく、徐々に成長していく弟子たちの、最初期の姿を描く思いなのでしょう。聖書とは、聖なるお方と、俗なる人とが交差する話なのです。神さまの尊い導きの中で、人が日々、導かれる話が書かれているのです。その端緒、日課の冒頭部分では恐らく、一人の子どもが主の腕に抱かれていた(936)と思われます。弟子のヨハネが口火を切ります。

 

「主のみ名を用いた悪霊追放」とは、「主のみ名による医療行為」ということです。主のお名前が金儲けに使われていた可能性が考えられます。この時点で主への評価、主の評判は、新進気鋭の医者さんでした。患者さんの話を聞き、心を重ね共感し、「神さまがご一緒です」という。どれだけの方が心に平安を得たことか。主イエスの癒しは奇跡となりますが、その原点には主のこのお姿があったのです。そして、それが勝手に使われたのです。

 

噂を聞きつけたヨハネは、乗り込み、実力を行使し、帰り、出来事を報告したのです。事柄としては、「詐欺“疑い”の摘発」です。しかし主は、ご自分の腕にいる幼子を見た。権力闘いをしていた弟子たちに主は、神さまの眼差しは「価値無き」と見なされていた子どもにも及ぶことを示しました。そして今、主はヨハネに「神さまの眼差しの広さ、深さ」を告げるのです。それがて「小さなものをつまずかせない(42)」という言葉に繋がるのです。

 

42節以降の言葉は、ヨハネに向けられた鮮烈な言葉となります。主の御前での権力争いをし、注意されても要点に気づかず、粗暴さをひけらかすことへの主の憤りです。しかし、憤りの中にも要点があります。それは「火」です。火は、不純なものを焼き払います。また神さまの力としての聖霊が「火のようだ」ともたとえられます。この出来事も、ヨハネによっての「鍛錬の時」となったのです。同じく私たちも「試練の中で」神さまの導きを求めたい。

 




2021年9月22日水曜日

9/18.19 徳山と防府の礼拝堂

 

 9/19(日)防府の礼拝堂でした。

 蒸し暑い日曜日でしたが、礼拝堂にはいつも来られている方々が集われました。

 9/19(日)こちらは午前中の徳山の礼拝堂でした。

 お休みされる方々も、教会までご連絡を頂けたことは嬉しかったです。

  9/18(土)は柳井の礼拝も行われました。久しぶりの、男の子の姿がありました。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

9/22 水曜日  19時 六日市チャペル礼拝 
 
9/25  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
9/26  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝 
 
9/28 火曜日 10時30分 牧師 地区牧師会のため宇部教会へ
 
9/29 水曜日  六日市チャペル礼拝
 
9/30 木曜日 牧師 出張のため岡山へ
 
10/2  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
10/3  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      
       15時30分 防府チャペル礼拝
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 説教             「あなたが一番」 

詩編13編は、私たちの日々とも重なる言葉が記載されています。「いつまでですか…」詩人は繰り返し問うのです。答えはすぐには示されませんが、それでも問い、だからこそ、問うのです。主の時代の人々も同様でした。苦役や徴税、疾病など、苦しみの要素は多くありました。主はその時代に、画期的なお言葉を二つ、言われたのです。「神さまのお近づき」と、「み国の約束」でした。現世と来世に希望をもたらす教え、それが日課の言葉です。

 

さて、主はガリラヤという地域をこよなく愛されました。ところが主は、今日の聖書では「弟子たちに復活予言を知らせた(31)」ことを理由にし、ガリラヤを秘かに後にします。以降に記載されているのは、無理解な弟子です。彼らを介しての、ご自身の姿がガリラヤに広まることを避けたのでしょう。当の弟子たちは主の思いを受け止めず、道すがら「誰が一番偉いか(34)」権力闘争の最中でした。主はまず、この弟子たちを指導をするのです。

 

その仕方は斬新でした。主はカファルナウムの家で、弟子たちを座らせ、自身も座り、 (35)、子どもを招きます。この時代の「子ども」とは、「無価値」なものの代表でした。人権の概念は遥かに違う昔、しかし主は子どもを座の中心に招きます。主は起立し、子どもを抱き上げます。弟子たちの目線は、主とその子どもに向かいます。今までは互いを見て、優劣を競う弟子たちはここで初めて、主と、「無価値」の代表である子どもを仰ぐのです。

 

当時の世間的な指標で「無価値」とされているものに主は「近づき」、抱き上げられるのです。弟子たちはやがて、主の真意に気づいたことでしょう。前半に記載された、主の十字架と復活を通し、既存のユダヤ教の死生観には無い、次の世への希望を弟子たちも悟ったことでしょう。私たちは、日々「いつまでですか」と問います。誰かの代わりにも問います。そのような私たち、誰かの傍に、この様な「近づく主、希望の主」がおられることを覚えたい