9/19(日)防府の礼拝堂でした。
蒸し暑い日曜日でしたが、礼拝堂にはいつも来られている方々が集われました。
お休みされる方々も、教会までご連絡を頂けたことは嬉しかったです。
9/18(土)は柳井の礼拝も行われました。久しぶりの、男の子の姿がありました。
今週、来週の予定は以下の通りです。
今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ 説教 「あなたが一番」
詩編13編は、私たちの日々とも重なる言葉が記載されています。「いつまでですか…」詩人は繰り返し問うのです。答えはすぐには示されませんが、それでも問い、だからこそ、問うのです。主の時代の人々も同様でした。苦役や徴税、疾病など、苦しみの要素は多くありました。主はその時代に、画期的なお言葉を二つ、言われたのです。「神さまのお近づき」と、「み国の約束」でした。現世と来世に希望をもたらす教え、それが日課の言葉です。
さて、主はガリラヤという地域をこよなく愛されました。ところが主は、今日の聖書では「弟子たちに復活予言を知らせた(31)」ことを理由にし、ガリラヤを秘かに後にします。以降に記載されているのは、無理解な弟子です。彼らを介しての、ご自身の姿がガリラヤに広まることを避けたのでしょう。当の弟子たちは主の思いを受け止めず、道すがら「誰が一番偉いか(34)」権力闘争の最中でした。主はまず、この弟子たちを指導をするのです。
その仕方は斬新でした。主はカファルナウムの家で、弟子たちを座らせ、自身も座り、 (35)、子どもを招きます。この時代の「子ども」とは、「無価値」なものの代表でした。人権の概念は遥かに違う昔、しかし主は子どもを座の中心に招きます。主は起立し、子どもを抱き上げます。弟子たちの目線は、主とその子どもに向かいます。今までは互いを見て、優劣を競う弟子たちはここで初めて、主と、「無価値」の代表である子どもを仰ぐのです。
当時の世間的な指標で「無価値」とされているものに主は「近づき」、抱き上げられるのです。弟子たちはやがて、主の真意に気づいたことでしょう。前半に記載された、主の十字架と復活を通し、既存のユダヤ教の死生観には無い、次の世への希望を弟子たちも悟ったことでしょう。私たちは、日々「いつまでですか」と問います。誰かの代わりにも問います。そのような私たち、誰かの傍に、この様な「近づく主、希望の主」がおられることを覚えたい