2021年9月15日水曜日

9/11.12 野のユリと防府

 

 こちらは、9/12(日)の防府礼拝堂でした。

 蒸し暑い日曜日でしたが、台風の影響なのでしょうか。

 こちらは、9/5(日)の防府の「野のユリ」。

 写真を撮り、礼拝を共に守り、その後徳山で前夜式でした。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

9/15 水曜日  六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。
 
9/16 木曜日 牧師 大阪出張
 
9/18  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
9/19  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝 
 
9/22 水曜日  六日市チャペル礼拝
 
9/25  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
9/26  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      
       15時30分 防府チャペル礼拝
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 マルコによる福音書8: 27-38 (新共同訳聖書、新約77ページ)

 

 説教            「目を天に上げ、星を仰いで」 

旧約聖書の詩人(8)は夜、月や星を眺めて後、「大なるものを作られた神が、自身を顧みられる」と歌いました。目を手元や世間から夜空に転じたとき、神さまのご配慮を感じたのでしょう。「私たちの視点」は、ともすれば、目の前の出来事のみを見つめるものです。そこに一喜一憂(憂いが大きいですが)します。み言葉の厳しさを切り取れば、「神のことを思わず、人間のことを思う(33)」私たちとなります。主のみ言葉に、力を頂きたい。

 

さて、日課です。「宗教者による殺意と死」と「三日後の復活」は、弟子たちにとって、「どぎもを抜かれる」発言でした。曲りなりにも「十戒」を旨とする宗教者が殺意を抱くとは何か。なぜ主がローマ式刑である十字架に送られるか。加えて、死後は「陰府」に列するという旧約の立場をふまえず、「復活」とは何か。ペトロの「脇へお連れして、諫めた(32)」姿は、常識や知識、習慣の積み重ねを重んじる「人間社会」の在り方としては、当然でした。

 

むしろここでは主の発言が「尖った」ものだったのです。しかし主の思いには、「常識や知識、習慣の積み重ね」の外に追いやられた人々の姿がありました。宗教者たちが「線引き」したことで、住み慣れた場所を追われた人々、孤独な人々、現世に希望でなく、絶望せざるを得ない人々。そこに向け主は、当時の宗教者が見失い、語らなくなった神の愛を「十字架で」示し、それを通して孤独なものに寄り添う自身の姿、来世の望みを語ったのです。

 

それが「神のこと(33)」と言えます。弟子たちも私たちも、現実としては、「人の間に生きる」ものです。その「人の間」には、しばし「常識や知識、習慣の積み重ね」が通用しない出来事も起こり得ます。難病、理不尽、突然の出来事、お手上げの状態、などです。目は手元から離すことは出来ないかもしれません。しかし、そのような私を「上から、傍らで」支える神さまの眼差しがあることを、この日は覚えたいのです。「神さまの御業を」探したい。