9/26(日)徳山教会の玄関となります。
この日は秋晴れの良い一日でした。
夏の花ですが、秋になってもまだ元気。
今週、来週の予定は以下の通りです。
今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マルコによる福音書9:38-50 (新共同訳聖書、新約80ページ)
■ 説教 「逃れられない試練の中で」
ここ二週間、マルコ福音書は「主の思いを悟り得ない」弟子たちの姿を記します。もちろん批判ではなく、徐々に成長していく弟子たちの、最初期の姿を描く思いなのでしょう。聖書とは、聖なるお方と、俗なる人とが交差する話なのです。神さまの尊い導きの中で、人が日々、導かれる話が書かれているのです。その端緒、日課の冒頭部分では恐らく、一人の子どもが主の腕に抱かれていた(9:36)と思われます。弟子のヨハネが口火を切ります。
「主のみ名を用いた悪霊追放」とは、「主のみ名による医療行為」ということです。主のお名前が金儲けに使われていた可能性が考えられます。この時点で主への評価、主の評判は、新進気鋭の医者さんでした。患者さんの話を聞き、心を重ね共感し、「神さまがご一緒です」という。どれだけの方が心に平安を得たことか。主イエスの癒しは奇跡となりますが、その原点には主のこのお姿があったのです。そして、それが勝手に使われたのです。
噂を聞きつけたヨハネは、乗り込み、実力を行使し、帰り、出来事を報告したのです。事柄としては、「詐欺“疑い”の摘発」です。しかし主は、ご自分の腕にいる幼子を見た。権力闘いをしていた弟子たちに主は、神さまの眼差しは「価値無き」と見なされていた子どもにも及ぶことを示しました。そして今、主はヨハネに「神さまの眼差しの広さ、深さ」を告げるのです。それがて「小さなものをつまずかせない(42~)」という言葉に繋がるのです。
42節以降の言葉は、ヨハネに向けられた鮮烈な言葉となります。主の御前での権力争いをし、注意されても要点に気づかず、粗暴さをひけらかすことへの主の憤りです。しかし、憤りの中にも要点があります。それは「火」です。火は、不純なものを焼き払います。また神さまの力としての聖霊が「火のようだ」ともたとえられます。この出来事も、ヨハネによっての「鍛錬の時」となったのです。同じく私たちも「試練の中で」神さまの導きを求めたい。