9/26(日)礼拝前の防府チャペルとなります。
この日も9月末日らしからぬ暑さでした。
礼拝堂のクーラー、聖壇の扇風機はまだ活躍中です。
9/26(日)朝の徳山チャペル礼拝堂です。
東の空からの光がステンドグラスを照らしています。
今週、来週の予定は以下の通りです。
今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マルコによる福音書10:2-16 (新共同訳聖書、新約81ページ)
■ 説教 「置かれた場で最善を尽くす」
人と人が、結ばれる時には喜び、分かたれる時には痛みがあると思います。それは、本日の聖書「結婚」の事柄でも言えます。お一つおひとつのご事情の中での出来事と選択があり、熟りょと悩みの中の決断を、第三者が軽々に言えることは何もありません。しかしその「別れ」が、日課に登場します。持ち出すのはファリサイ派、答える主の言葉は、その言葉のみが切り取られ、近年までの一部の教派の「キリスト教倫理」とされたこともありました。
主のお言葉は「神が結ばれたものを、人が離してはならない(9)」です。しかしこれは、例えば岐路に佇む二人、胸を痛める一人といった「当事者」ではなく、「ファリサイ派(2)」に向かうものでした。その思惑は「イエスを試(2)」すこと。当時、自身の妻と離縁、自身の兄弟の妻も離婚させ、彼女と結婚した王がいました。(義理の妹と結婚したのです)。ファリサイ派はそれを踏まえ、「是」と答えても「否」と答えても、主を詰問する思いなのです。
いわば「閉鎖された問い」です。主は「律法順守」という彼らの立場を尊重し、ファリサイ派には「離縁は否」と答えるのです。この部分のみが切り取られ、「キリスト教は離婚を禁止している」ということが広められたのです。一方で主は帰宅後、弟子たちに真意を説明します。主は弟子たちに、時の領主ヘロデを念頭に置いて発言します。この主のお言葉の中で覚えたいのは「罪な行為を向けられた」女性の思いを顧みられていることなのです。
「岐路に佇む」「心中の痛み」はいくつもあります。この日の聖書のような出来事、何かを守るため、何かを失うことを迫られる選択、何かを得るため、何かに犠牲を負わせる選択。そのどれもが、私たちを「佇ませ」ます。続く聖書も「主による癒し」を願う親たちの物語。弟子たちに排除されても、親たちは主に子どもを託す。かつて、佇んだ私たち、これからも佇むことでしょう。その私たちに主が招きの手を伸ばすので、祈り,思いを託したい。