・・・このところ、教区御用の出張が続き、更新が滞っていました。
こちらは、明日(10/31)の礼拝に備えた徳山礼拝堂の「今」です。こちら、今週の中ほどに、教会員の方が整えられた徳山の花壇です。
右にひょろ長いのは、オクラ。剪定されすぎていますが、まだ現役。
10月は午後、季節外れの謎の暑さがずっと続いていました。
こちら10月ある日の柳井礼拝堂。裏は野菜畑と側溝があります。礼拝中に、手にとまった蚊についてはいつも悩みます。
今週、来週の予定は以下の通りです。
今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
聖書 エレミヤ31:31~34 (旧1237)
■ 説教 「原点は愛、応用も愛」
日本人の感性は「巨大なものに立ち向かう人」を好むと感じます。ルターの働きも、それと見なされます。少なくとも16世紀の彼の行動は、「教会」という巨大組織への対抗と見なされました。当時、ルター側が発した様々な風刺画は刺激的な描写に満ちています。ただ、彼の本意は何だったのか。「こき下ろす」のではなく、「アウグスブルグ信仰告白」が告げるように、「福音の説教と聖礼典の執行」の重視です。教会改革は、一つの結果でした。
この日の旧約は、ルターの行動と似通っています。エレミヤは「涙の預言者」と知られています。時の宗教者たちが世間に甘言を弄するのに対し、エレミヤは「真の神」への立ち返りを求める。人々は彼に耳を傾けず、彼は落涙する。その彼がこの日は、神さまの取り決め、つまり律法が、石板でなく、人の心に刻まれると語ります。それほどの出来事が起きることをエレミヤは予見する。「互いに教えあうことがなくなる」「新しい契約(31)」なのです。
主の時代には、律法を事細かに「教える」ファリサイ派がいました。その意図は、「律法の勧め」でした。ファリサイ派の名の意味は「区別」でしたが、彼らが世間を神さまと分断することもありました。主は「律法の実行によっては誰一人義とされない(ローマ書)」ことを示すため、ご自身を十字架に上げ、復活によって「神、共にある」ことを示されたのです。神さまとの分断でなく、一致。正確に言えば「神さまのお近づき」が主の語る本意でした。
ルターも同様。「献金箱への献金が、煉獄からの魂の救済」と語った当時の説教者を糾弾し、「神、共にある」ことを述べた主のことを伝えたのです。この世では私たちは日々、多くの分断に立たされる。目撃する。その渦中に立つものです。分断に立ち向かう、いわゆる英雄ではなく、むしろその中に生きる私たちの魂を支える方、主イエスに思いを向けたい。主が私たちの心に刻むみ教え、それは「神さまは、あなたを愛してくださる」ことなのです。