2021年11月24日水曜日

11/17.21 六日市の月夜と防府

11/17(水)の六日市の月夜です。

・・・皆既月食では、ありません。

11/21(日)の防府の礼拝堂です。

聖霊降臨節の最終主日。来週からはアドベントを迎えます。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

11/24 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

11/27  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/28  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

12/1 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

12/2 木曜日 17時 西教区常議員会 於:京都教会 

12/4  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/5  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

今週の礼拝説教の要旨は、以下の通りとなります。

 説教               「キリストも板挟み?」 

  この日は教会の暦で、「大みそか」となります。礼拝のテーマは「王であるキリスト」を覚えることになります。王とは「輝かしく、威厳のある存在」でしょうか。しかし聖書は反対に「刑場に向かう過程の王」を描きます。この王は、ちょうど今日の(時季外れと思える)讃美歌のように、苦しみを受け、しかし復活をされました。その間、ご自身はさておき、結果的に保身、板挟みとなるピラトをかばう姿勢を示されるのです。聖書が語ることを聞きましょう。

 

ピラトの身分はローマからの総督で、ローマ、ヘロデ王朝、ユダヤ人宗教者間の調整をする「中間管理職」でした。今日の聖書のポイントは「ユダヤ人の王(33)」との表現です。この時代の「ユダヤ人の王」は、ヘロデ王朝であり、主がこう名乗ることはヘロデ王朝には好ましくないことでした。だから、主が自称するならば、ピラトは「ユダヤ人同士の内紛」という観点上、主を官邸から追放できるのです。ユダヤ人同士だけの問題になるのです。

 

一方でユダヤ人たちは、「手を汚したくない」との思惑から、主をピラトに裁かせようとするのです。だから聖書でピラトは「ユダヤ人の王か」と問い、「そうだ」との答えを引き出そうとしている。ピラトは、ユダヤとの関係を作りたい一方で、ユダヤ人間の争いから逃れたいとの思いに挟まれているのです。主はそのピラトの思いを知り、今日の聖書で「この世」以外のことを語り、やがてピラトの「私はこの男に罪を見出せない」と言わせるのです。

 

しかしピラトはこの裁きを「民衆」に委ね、民衆は主ではなくバラバを選びます。主は十字架にかけられるのです。好意が裏切られ、人々からは嫌われ、十字架に挙げられた主、しかし復活して今もなお私たちを支えるのです。やがて、アドベントを迎えます。様々な出来事の年でした。決して、晴れやかで華々しい気分で年の終わりを迎えられることはない、と思います。しかし、主はその私たちの基に生まれて下さるのです。覚えたいことです。


 

2021年11月16日火曜日

11/13.14 子ども祝福礼拝と、枯れ葉と生花

 

こちらは、徳山チャペルの玄関口にある「ブナの木」と、根元には「菊の花」。

ブナの木は時期を迎えて枯葉の装い、菊はなぜか、盛りを迎えています。

こちらは、11/14の防府チャペル礼拝。

赤(宗教改革)→白(全聖徒/召天者礼拝)→となり、今週は緑です。

 11/13(土)柳井では子ども祝福礼拝が行われました。

 祝福のお土産に、見えにくいのですが、その下にはキャンディレイがあります。

 六日市の礼拝は、明日は行われます。

  今週、来週の予定は下記のとおりです。

11/15-16 (月曜日-火曜日)
        牧師 全国常議員会(ZOOM参加)
 
11/17 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 
 
11/20  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
11/21  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

11/23 火・休 14時 牧師 出張

11/24 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

11/27  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/28  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

今週の説教要旨は以下の通りとなります。

 説教             「今日私は、リンゴの木を植える」 

奈良の巨大な像建立の一因は、「感染症(天然痘)」の鎮静祈願とも言います。社会不安が広がると、人々は「偉大なもの」をより覚えるのでしょう。2000年前のユダヤには、「神殿」がありました。「建てるのに46年もかかった(ヨハネ2)」という触れ込みの建造物に、弟子たちも驚いています(1節)。ところが「共感」の主イエスが、ここでは素っ気ない態度どころか、この場所では危険極まりない「この建物はやがて崩れる(2)」と言われます。

 

この神殿は通称「ヘロデ神殿」。「下剋上」で、ローマの力を借りて王になったヘロデは、人々の不安を和らげるためにこの建物を建てたのです。しかし財源は国庫でなくユダヤ教宗教者たちの負担。宗教者たちはその負担を、人々から取り立てたことになるのです。確かに建物の外見は立派でも、原資は血税すなわちユダヤの人々の血と涙を主はご承知だったのです。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サム167)」のです。

 

主の「神殿崩壊(2)」のお言葉は、弟子たちにも届きます。弟子たちは「前兆(4)」を問いますし、主も「戦争の騒ぎやうわさ(6)」が聞かれる状況になるとも言われます。それらは、「社会不安」という言葉に集約できます。しかし主は弟子たちに、「気を付ける」「惑わされないように(5)」「慌てない(6)」との勧めを説かれます。実際、そういう「社会不安」を私たちは2年間、身をもって体験しています。年の終わりに、改めて聞きたい言葉があります。

 

それは「神殿の建物を覚めた目で見る主」の眼差しです。建物の豪壮さではなく、「主はそこに携わった一人ひとりの思いを見る方」なのです。外見ではなく中身を、言い換えれば「社会不安の中に生きる私たちの心」を支えて下さる方なのです。ルターの言葉とされるものに「たとえ明日、世界の終わりが来るとしても、今日私はリンゴの木を植える」というものがあります。主の支えを信じつつ、朝は感謝を、夜も感謝を思いつつ、生きたい。


  

 

 

 

2021年11月9日火曜日

11/7 召天者記念礼拝

 こちらは、11/7(日)の防府の礼拝堂でした。

 写真は撮っていませんが、この画面の下には、歴代の防府をお支え下さった

 召天者の方々がお写真として、礼拝に参列くださいました。

こちらは、11/7(日)の徳山の礼拝堂でした。

 お写真はすでに、ご自身の「ご自宅」や「記念庫」に戻られましたが、

大勢の方々がお写真としてご参列くださいました。

柳井、防府、徳山とも、それぞれのチャペルで大勢の方々とも礼拝を守りました。

六日市では、11/17(水)に召天者記念礼拝を執り行います。

今週、来週の予定は以下の通りです。

11/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
11/14 日曜日  10時45分 徳山チャペル礼拝
        15時30分 防府チャペル礼拝
    
11/15-16 (月曜日-火曜日)
        牧師 全国常議員会(ZOOM参加)
 
11/17 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 
 
11/20  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
11/21  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

 

 説教             「持ち物をささげた人々」 

使徒言行録3章には「金や銀はない」しかし「主のみ名(の力)」の奇跡を行うペトロの姿があります。本日は召天者記念礼拝。懐かしい方々と再会しています。「金や銀を受け継ぐ」以上に、多くの思い出を与えられました。今年、教会では2名がみ国に召され、召された方は、ペットたちも含め、主の御腕に抱かれておられます。最期は、それぞれ痛みがあったでしょう。だが今「涙が拭われ、痛みなく、嘆きない」場におられる(21)のです。

 

冒頭の使徒言行録で、ペトロに癒された彼も、足の痛みを覚えていました。逝きし全ての方々は、それぞれ、自身の命や病と向かい合いながら「その時」を迎えるものと思います。この日の聖書に出てくるのは「やもめ」で、ご主人を先に送った女性となります。「社会保障制度」として「落穂拾い(ルツ)」や、「寡婦保護規定」(10)もありましたが、保障制度の隙間を付く行為もあったようです(マルコ1240)。その彼女が神殿に来るのです。

 

彼女の生活や心情は、ぎりぎりの所ではなかったかと想像します。追い詰めたのは、本来なら頼りの宗教者。その宗教者が「やもめの家を食い物にする」状況。ついに彼女は、神さまに祈り、頼るべく神殿に来たのです。捧げられるものは、相対的な価値では低い「2レプトン(50)」でした。しかし神さまは、相対的な価値や比較ではなく、み前に立つ人の深い心をご覧になります。「ぎりぎりの状況」は、これこそ望まずに来る厄介な事柄です。

 

そこで聖書、やもめが「捧げた」のは何か。私たちも「捧げる」のは何か。見えるものは、金銭です。神さまは、相対的な価値(額の多寡)ではなく、個々人に「絶対的な価値」を見出されます。「私の目にあなたは貴い(イザヤ43)」。捧げものは、金銭だけでなく、祈りもあります。「ぎりぎりの状況」に立つとき、立った時、立たされそうになるとき、その中で「祈る」群れでありたい。それがかつての人々や、今やこれからの人々の支えとなったのです。