2016年2月28日日曜日

2/28 礼拝と献花






 
昔の人は1月、2月、3月を春と考えていたようです。
春は近いと思わされるような陽気の日曜日でした。

徳山では礼拝が行われ、礼拝後には肉みそおにぎりと豚汁の愛さんでした。

献花もだんだんと春の花が混ざっているように思えます。
花の名前は知らないのですが。

今週、来週とも、礼拝は以下の日程で行われます。
どなたでもご自由にお越しいただけます。

  3/6(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 3/3(木)には、
       益田カトリック教会にて世界祈祷日、益田地区礼拝14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。




【ルカ福音書1319節】
災いとは私たちの生活を変えるものです。聖書には二つの事件が記載されていました。冒頭のピラト事件とはどういう出来事だったか。神殿参りの人々、世間的に見れば「善男善女」が突如乱入した兵士に殺害されてしまったのです。生贄の血に彼らの血が加えられた事件でした。主は、その人たちが死なねばならなかった理由というものを問いかけます。

なぜ「突然死」を遂げたのか。「寿命」や「老衰」ではなく召された場合、私たちも、人がなぜ死なねばならぬかを問います。テロや災害の被害者を思います。突然の死に、この死の意味は何かと問うことがあります。主の時代の一般的な理解は、「突然死」は「罪」いわゆる因果応報が原因とされました。だが主はその理解を「決して違う」と断言する。「悔い改め」を求めます。方向転換です。事件を通して神は何を語るかを注目します。

シロアム事件も然りです。何が起きたか。領主ピラトはローマ風の設備を領内に建設しました。ところが建設途上でローマ様式の水道の塔が倒壊し18人が死亡しました。やはり主は「罪の故」との理解を拒否します。先祖累代の井戸を改修した罰とか、改修工事への加担の罰とかの声は上がったのでしょう。主は「方向転換」事件そのものでなく、事件を通し神を見よと勧めます。しかし神は答えを即座に下さらない。理由不明の中で生きるのは酷です。

立ち止まる人々、私たちに主は次の話をなさいます。これが聖書と主の凄さです。不実なイチジク、なぜ不実かは分かりません。切れと主人は言いますが、園丁はこのイチジクを庇います。来年、再来年不実であっても、園丁はその度に木を庇うでしょう。なぜか、如何してか、不明なことに囲まれる私たちですが、主はそのような私たちを庇うのです。キリスト教の悔い改めとは、自己反省でなく、私たちを庇う主を、忍耐強い神を見上げることです。

2016年2月21日日曜日

2/21 献花と礼拝





本日の礼拝献花です。今日は、ご用事の方が多く、少ない礼拝でしたが、
それでも恵み豊かなひと時でした。

礼拝後には、召された教会員直伝という醤油ラーメンが振舞われました。
ラーメンの画像はありません、あしからず。

今週、来週とも、礼拝は以下の日程で行われます。
どなたでもご自由にお越しいただけます。

 2/28(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 2/25(木)には、
       益田小浜にて14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。





【ルカ福音書183143節】
「主は一人、信仰は一つ」と聖書は言います。その私たちは過ぎた一週間、互いに違うものを見ています。花鳥風月、自然の有様はもとより、職場、地域、家庭なども違います。見たいと思う例えば平和は遠く、見たくないと思う争いや圧迫などは近いものです。「見える」ということは、恵みの一つです。しかし重荷にも感じることもありますね。

主はまず受難を予告されます。これは三度目の予告です。この予告には、以前の二つの予告には無い特徴があります。それは凄惨な描写です。「侮辱、乱暴、つば、鞭打ち、殺害」と。主は視覚的な表現を用いて予告されます。その予告後、主はエリコに近づきます。道端には盲人。彼は主に憐れみを願う。先達が彼を叱り飛ばします。「邪魔」と捉えたのでしょう。だが主は「邪魔」と考えません。見えるようになった彼は主に従います。

この話の教え自体は、願いを固め、頼み続けることです。私たちとの違いで言えば、私たちは祈りが多い。多いのは良いが、一心に熱心に祈り続けることが難しい。問題の渦中当座は熱心に祈るが、次の課題が来ると当初のことを忘れる。いかがでしょうか。彼はその中で一つのことを「晴眼」を願い続けました。主は彼の一心と熱意を重んじます。

晴眼を得た彼は主に従います。主に従う者として、主の教えの対象を見もするし、花鳥風月も見たことでしょう。だが主に従う彼がその後見たのは主の苦しい状況でした。「侮辱、乱暴、つば、鞭打ち、殺害」などです。「見たくないものを見た」。だが彼はその後数日して「主の復活を見る」或いはその知らせに預かるのです。主がこの世の嵐に打倒されず、超えてゆく姿をも見たのです。私たちもそれを見ることができます。一週間の日々が控えています。聖書を通して、私たちは、私たちの一週間の出来事を導く主に頼りたい。

2016年2月14日日曜日

2/14 教会の礼拝と献花






 朝から突風の徳山でした。
 庭にあるルターのバナーが揺れている朝でした。

 今は風がだいぶ収まっていますが、月、火と山陽は雪の予報です。

 本日も礼拝が行われ、礼拝では先週ご召天になった教会員のお父上を覚えた
 祈りがなされました。

 礼拝後、徳山では、いりこ出汁の具だくさんの味噌汁、おにぎりが振舞われました。

 来週も礼拝は、以下の日程で行われます。

 2/21(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 2/18(木)には、
       益田にて14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。




【ルカ福音書4113節】
聖書全体で「悪魔」は二通りの書かれ方がなされています。一つは神さまの敵、もう一つは神さまの家来です。「神の敵」としては、黙示録に記載されています。この世の害悪を司り、神さまを外側から攻撃します。「神の家来」としては、代表は「ヨブ記」。神の配下としてヨブを試みます。神さまを内部から困惑させます。私たちに当てはめれば明快です。悪の思いや誘惑は、私たちの外からか、内から出てくるのか。分からないものです。

今日の聖書「荒野の誘惑」では、悪魔は「神さまの家来」として主を誘惑します。なぜなら悪魔は「この世の権力と繁栄を授与」されたといいます。なぜ神さまは悪魔にそれらを委ねたと聖書は記すのか。福音書を書いた記者は、現状から原因を考えたのです。当時のユダヤは苛政と統治者の不品行が甚だしいものでした。悪魔の所業としか思えない出来事が連続していました。神さまがこの悪魔に権力の所有権を委ねていたと考えたのです。

悪魔はその権力を主に条件付きで委ねるといいます。「私を拝むなら」つまり悪魔の家来になる条件です。悪魔の巧妙さがここに強調されています。だが主は誘惑を退けます。また悪魔は繁栄の授与も提言します。受ければ閉塞した人は無くなり、思い煩うことも無くなる。だが主はその誘惑をも退けます。他の2つの誘惑や悪魔すら主は退けます。主が誘惑を除けるのは当然のことと思いますが、なぜ主は誘惑を退けたのでしょうか。

主は、人と共に平和や平安を成すと考えていたからです。神さまやイエスさまは、用いようとされる私たちが拙くても信じて下さるのです。その後の主の伝道は困難そのものでした。でも主は、一人一人に働きかけることを大切になさいました。だから主の十字架後弟子たちは再起できたのです。主は私たちをも信じて下さいます。誘惑は多くあります。誘惑が多く迫ってくる中で、主からの信頼を旨とし、主と共に生きる恵みを感謝したい。