2016年6月28日火曜日

6/28 礼拝

今週、献花の写真を取り損ねてしまっています。

載せたい写真もあるのですが、なかなかそろいません。


来週も礼拝は、以下の日程で行われます。

7/3(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 6/30(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。

 本日の説教要旨です。



【ルカ福音書73650節】
涙は心の汗,言葉,癒し,雨。色々な表現があます。ルカ7章では二人の女性が涙しています。今日登場する女性がいます。既に主はファリサイ派の家に招待されていましたが、その女性は招かれざる客でした。「罪の女」との記載があります。彼女は主に為し得る奉仕をし、そのみ足を涙で濡らします。この涙の理由は多岐に渡るものがあります。主への悲しみの涙か、主の包容力に打たれた涙か、自身の過去を思い出す故の涙か。見たいのです。

そもそも罪の赦し」とは、当時は社会復帰可能宣言でした。罪人との宣言は社会からの隔離を意味し、赦免宣言は社会性の回復だったのです。ただその赦免宣言獲得には多大な時間と出費が要りました。赦免は得難く高価なのです。だが主は、社会から弾かれたものを慰めます。ルカ福音書の主の特徴は枠越え」ですが、それはここでも然りなのです。女は主に会いたかった。だが主本人は、「枠」の構築者であるファリサイ派と会食していたのです。

味方と思っていた主が、ファリサイと会食している。主へ悲しみの涙があったかもしれない。或いは違う意味かもしれません。この女性、「罪の女」と言われ続けていました。主のみ前で、取り返しが付かないことをし続けたと気付かされたのかもしれません。気付きの涙か。あるいは、主は全てを赦してくださる。自分自身が主によって受容されているとの安どの涙でしょうか。多くが入り混じる思いの中で、この女性は主に近づいたのです。

何よりも主は、当時の「義人と罪人」との壁や枠を乗り越えて、この女性に赦しを与えられたのです。「置かれた場所で咲きなさい。」の言葉があります。神はなし得ることを私たちの前に置くのです。主は大きな愛をお持ちの方です。私たちの周囲の壁、この世の壁を越えて私たちや、必要とされているところに来て下さいます。その主を覚えたい。
 

2016年6月12日日曜日

6/12 献花と礼拝


 サザンカ、ではなくアジサイです。
 頭の回路がどうなっていたのか、私はこの花を「サザンカ」と紹介していまいました。

 本日も徳山Cでは礼拝が行われました。
 礼拝後には、徳山大学の留学生の方が、キリスト教に関する自主研究のレポートに、
 有志の方が協力していました。むろん、わたしも。

 来週は、六日市での合同礼拝となります。
 徳山教会での礼拝は六日市に合流して行われますので、ご留意ください。

 本日の礼拝説教です。

 

【ルカ福音書7110節】
このルカ福音書に流れる理念は分かり易さ」そして外に伝える」ことです。私たちで言えば、家族ですとか、友人ですとか、そこにも主は関わるのです。今日もそのことが記載されています。登場の百人隊長は、100名ほどの兵の指揮官でした。ユダヤから見ればローマ人で異邦人でした。彼は、重症な部下を抱えている。彼は家に呼んで、兵を看病するのです。

百卒長は主を呼びますが、途中で思い直す。ローマ人の自分が主を呼ぶのは相応しくない」とし、ただ主の言葉だけを願います。主は兵を癒します。これが奇跡の一つ目です。実はこの話にはもう一つの奇跡があります。隊長にとって、この部下はいかなるものか。当時、兵隊は現地徴収の奴隷で、補充可能「部品」かつ「持ち駒」でした。だが百卒長は部下を歯車と見なさず、家族の一員と見なすのです。この考え方も奇跡と呼び得ます。

当時のユダヤは神様は信仰者以外を顧みない」という考えでした。ユダヤの歴史は旧約聖書に載せられていますが、一面は神さまがユダヤの人々を助けた歴史です。意地悪な見方をすれば、ユダヤの征服史です。神さまは、信仰がない人々を、アブラハム,モーセ、ヨシュア等を遣わして征服させた、という見方です。主の時代も残る考えでした。しかし神さまは果たして、民族を区別なさるような方か。違いますね。主は神さまの幅広さをこの奇跡で示された。

み言葉の要点は三つです。その一主は垣根を超える」私たちは先立って主の群れとされましたが、主は私たちを用いて外へ更に働こうとされます。私たちは、執り成しの祈りが大切です。その二相応しくないと思う者にも働く」相応しく無い者などいないということです。その三「私たちにできることは何か」。この隊長は病める部下の傍に居ることが出来ました。私たちに為し得ることは、必要とされる処に居続ける。祈りつつ居続けることです。

2016年6月5日日曜日

6/5 礼拝と献花

本日は、釣鐘のようなお花が捧げられました。
徳山は、本日会員ご家族が大勢集う礼拝でした。
礼拝後は肉うどん。感謝のひと時でした。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。

6/12(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 6/9(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。

 本日の説教要旨です。
 
 


【ルカ福音書63742節】
一般的に、魚の「アラ」とは頭や内臓です。美味と思います。人の「アラ」はどうか。他者のアラは目に付き易く、自身のものは気付き難いのです。主はそのことを「他者のおが屑は見え、自身のは見え難い」と言われます。この教えは愛敵」に続くものです。私たちは教えをどう受容れば良いのでしょうか。そもそもなぜ私たちは人を裁く者なのか。

それは考える以前の問題でしょう。主は冒頭で裁くな、裁かれないために」と言われますが、言葉を入れ替えて裁かれないために裁く」私たちがいます。自身の大きなアラを隠すため、人の小さなアラを見出すのです。聖書のある個所では裁きが語られていますが、結審は悔い改めに導くものです。私たちの裁きは他者を悔い改めに至らせず、放置することがある。裁きが不十分で、むしろその裁きが躓きとなってしまうことがあるのです。

主の裁きは、他者を悔い改めに導く裁きですし、この世で「共に生きる」ための裁きです。私たちにはそれがあるでしょうか。主の裁きで有名な「罪の女」ヨハネ福音書です。主は女性を裁かず、女性の仕事をも裁かない。それは女性の歴史そのものであるからです。私たちは魚の肝要部分をアラと呼び不要に扱うこともありますが、魚には肝心部分です。他者のアラもその人を構成する一要素なのです。「共に生きる」ための思いを得たい。

人を感情やその場の雰囲気、空気の中で裁き、売り言葉に買い言葉が続き、後に惨めな思いをすることはあります。人間的向上、魂の向上を試みる裁きは難しい。主のみ助けの中で為し得ることがありますね。この世的目線なら他者のアラはそのものです。だが主の助けの中で、他者のアラをその人らしさの源と見たいのです。なぜなら、私たちの大きな、苦いアラも同様に、ありのまま受容されているからです。共々に荒波に向かいたい。