徳山は、本日会員ご家族が大勢集う礼拝でした。
礼拝後は肉うどん。感謝のひと時でした。
来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
6/12(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
6/9(木)には、
益田14:00~ 礼拝、
六日市19:30~ です。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。
本日の説教要旨です。
【ルカ福音書6章37-42節】
一般的に、魚の「アラ」とは頭や内臓です。美味と思います。人の「アラ」はどうか。他者のアラは目に付き易く、自身のものは気付き難いのです。主はそのことを「他者のおが屑は見え、自身のは見え難い」と言われます。この教えは「愛敵」に続くものです。私たちは教えをどう受容れば良いのでしょうか。そもそもなぜ私たちは人を裁く者なのか。
それは考える以前の問題でしょう。主は冒頭で「裁くな、裁かれないために」と言われますが、言葉を入れ替えて「裁かれないために裁く」私たちがいます。自身の大きなアラを隠すため、人の小さなアラを見出すのです。聖書のある個所では裁きが語られていますが、結審は悔い改めに導くものです。私たちの裁きは他者を悔い改めに至らせず、放置することがある。裁きが不十分で、むしろその裁きが躓きとなってしまうことがあるのです。
主の裁きは、他者を悔い改めに導く裁きですし、この世で「共に生きる」ための裁きです。私たちにはそれがあるでしょうか。主の裁きで有名な「罪の女」ヨハネ福音書です。主は女性を裁かず、女性の仕事をも裁かない。それは女性の歴史そのものであるからです。私たちは魚の肝要部分をアラと呼び不要に扱うこともありますが、魚には肝心部分です。他者のアラもその人を構成する一要素なのです。「共に生きる」ための思いを得たい。