載せたい写真もあるのですが、なかなかそろいません。
来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
7/3(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
6/30(木)には、
益田14:00~ 礼拝、
六日市19:30~ です。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。
本日の説教要旨です。
【ルカ福音書7章36-50節】
涙は心の汗,言葉,癒し,雨。色々な表現があます。ルカ7章では二人の女性が涙しています。今日登場する女性がいます。既に主はファリサイ派の家に招待されていましたが、その女性は招かれざる客でした。「罪の女」との記載があります。彼女は主に為し得る奉仕をし、そのみ足を涙で濡らします。この涙の理由は多岐に渡るものがあります。主への悲しみの涙か、主の包容力に打たれた涙か、自身の過去を思い出す故の涙か。見たいのです。
そもそも「罪の赦し」とは、当時は社会復帰可能宣言でした。罪人との宣言は社会からの隔離を意味し、赦免宣言は社会性の回復だったのです。ただその赦免宣言獲得には多大な時間と出費が要りました。赦免は得難く高価なのです。だが主は、社会から弾かれたものを慰めます。ルカ福音書の主の特徴は「枠越え」ですが、それはここでも然りなのです。女は主に会いたかった。だが主本人は、「枠」の構築者であるファリサイ派と会食していたのです。
味方と思っていた主が、ファリサイと会食している。主へ悲しみの涙があったかもしれない。或いは違う意味かもしれません。この女性、「罪の女」と言われ続けていました。主のみ前で、取り返しが付かないことをし続けたと気付かされたのかもしれません。気付きの涙か。あるいは、主は全てを赦してくださる。自分自身が主によって受容されているとの安どの涙でしょうか。多くが入り混じる思いの中で、この女性は主に近づいたのです。
何よりも主は、当時の「義人と罪人」との壁や枠を乗り越えて、この女性に赦しを与えられたのです。「置かれた場所で咲きなさい。」の言葉があります。神はなし得ることを私たちの前に置くのです。主は大きな愛をお持ちの方です。私たちの周囲の壁、この世の壁を越えて私たちや、必要とされているところに来て下さいます。その主を覚えたい。