トロッケンゲヴィンデ。ドイツの民芸品ということです。
作品名は「ピラミーデ」ピラミッドということです。
益田の教会員作成の作品です。ご紹介まで。
こちらは徳山の本日の献花。
教会の庭から捧げられたものです。
来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
7/10(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
7/7(木)には、
益田14:00~ 礼拝、
六日市19:30~ です。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。
本日の説教要旨です。
【ルカ福音書9章18-26節】
聖書を続けて読んでいくと、時に正反対の記載に出会います。「疲れた者,重荷を負う者は」と主が私たちを招くこともあれば、「重荷を負え、十字架を背負え」と言われることもあります。私たちの過ぎる一週間、またこれまでの日々を思います。重荷を担いきれないこそ、休憩所としての教会に私たちは名を連ねているのでしょう。なぜ主は「重荷を負え、十字架を担え」と言われるか。厳しいこの言葉に、恵みが実は隠されているのです。
まず聖書の冒頭で、主は祈っておられます。弟子たちは傍に居ましたが、祈っているのは主ただお一人でした。主はご自身の噂を求めます。「メシア」と答えるのはペトロです。「メシア」とは「救い主」の意味です。いわば主が求めた答えなのでしょうが、その答えの後「重荷を負いなさい」の勧めがなされます。メシアとは、重荷を引き受け、下ろすことを促すはずなのに、なぜ「負いなさい」という勧めが為されるのか。不思議です。
ところでこの弟子たちは皆、優良回答をしたペトロでさえも、一度は担うべき自分の重荷から逃げてしまいます。主も、十字架の直前、このルカ福音書では自身の十字架を別人に肩代わりしてもらいます。弟子も主も、一度は手放しても、再度担うことになるのです。自身の重荷は時に手放しても、いずれ担うことになるのです。ならば、重荷を手放すことを考えるより、共に担って下さる方を思う方が、気分の意味で楽であるといい得ます。
メシアとは、共に居て下さる方です。私たちに重荷だけを負わせず共に担う方なのです。つまり、重荷を担う苦しさや、重荷そのものは私たち一人だけのものではないということです。「疲れた」時こそ私たちはそれを下ろしたい。そして再び担ぎ上げるとき、担い手は自身だけではないことを覚えたい。「独りよりは、二人の方が良い」のですから。