本日午後、徳山Cでは会員ご父君の召天記念会が行われますので、相応しい百合の花です。
召天記念会のさいに捧げられた献花と、故人の記念の品々です。
ロックハンマーです。故人は地学の教師で、山口県を愛した方でした。
来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
聖書の学びも以下の日程です。
いずれの集会も、どなたさまもご自由にいらして頂けます。
8/2(火)徳山C聖書の学び
8/4(木)には、
益田 14:00~ 礼拝、
六日市 19:30~ です。
8/7(日)益田C合同礼拝、
徳山、柳井、防府での礼拝はお休みとなりますのでお覚え下さい。
本日の礼拝説教要旨です。
【ルカ福音書11章1-13節】
新約聖書が執筆されたギリシアの言語では、人間は「アンスロポス」と言います。祈りの存在という意味です。祈りは人の自然な習慣なのです。ではどのように、何を祈るか。祈りの内容に規定はあるか。それを今日の聖書が語るのです。まず冒頭で主は祈ります。祈りを求める弟子たちです。先人ヨハネの模範を引用し、主に祈りの文言を求める弟子たちがいます。
私たちの祈りは自己中心的なものです。主の祈りは私たちの祈りに欠けているものを含んでいます。ところでこのルカでは、昔の私たちの主の祈りと言葉が多少違います。ルカはただの「父」しかしマタイ福音書は「我らの父」。神は私だけの父でなく全ての人の守護者です。全ての人が父と呼びうる存在です。またマタイ「み国と御心」とあるがルカ「み国」。末尾の「頌栄」は後代の付加。神の愛を最初に想起し末尾で神賛美、まさに祈りの模範です。
また主の祈りを祈ることで隣人他者のためにも祈ることになります。「日ごとの糧、赦し、誘惑回避」の要素を主は「私たちの」必要とします。誰もが日ごとの糧、心の糧を求める。主の祈りのこの一句を祈ることで、必要を求める人々のための祈りになります。赦しや誘惑回避も同様。誰もが願うことです。つい私たちは、主の祈りすらも慣性で祈ってしまします。心を込めて、今の世の中の課題を想起しつつ、隣人他者のために祈りたい。
そこで「求めよ」何を祈りで求めるか。主の例え話です。パンを借りに来た人が訪ねた時間帯はまことに不謹慎です。パンを焼くことも大変です。しかし結局パンを与えると主は言うのです。これはだめかな、とか、これは違うかな、とためらう必要はありません。何でも求めて良い。神さまは私たちの思いを越えて、良いものを私たちに下さるお方です。祈りの文言が見いだせない時、暗記しているであろう主の祈りを、心を込めて祈りたい。