2021年10月30日土曜日

10/30.31 礼拝堂

 ・・・このところ、教区御用の出張が続き、更新が滞っていました。

 こちらは、明日(10/31)の礼拝に備えた徳山礼拝堂の「今」です。
 こちら、今週の中ほどに、教会員の方が整えられた徳山の花壇です。

 右にひょろ長いのは、オクラ。剪定されすぎていますが、まだ現役。

 こちらは10月ある日の防府礼拝堂です。

 10月は午後、季節外れの謎の暑さがずっと続いていました。

 こちら10月ある日の柳井礼拝堂。裏は野菜畑と側溝があります。

 礼拝中に、手にとまった蚊についてはいつも悩みます。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

10/31 日曜日  10時45分 徳山チャペル礼拝
        15時30分 防府チャペル礼拝(中島共生牧師)
        牧師 出張のため西教区内へ。    
 
11/3 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 
 
11/4 木曜日 17時 西教区常議員会 牧師 大阪
 
11/6  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
11/7  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      
        15時30分 防府チャペル礼拝
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 聖書 エレミヤ31:3134 (1237)

 

 説教             「原点は愛、応用も愛」 

日本人の感性は「巨大なものに立ち向かう人」を好むと感じます。ルターの働きも、それと見なされます。少なくとも16世紀の彼の行動は、「教会」という巨大組織への対抗と見なされました。当時、ルター側が発した様々な風刺画は刺激的な描写に満ちています。ただ、彼の本意は何だったのか。「こき下ろす」のではなく、「アウグスブルグ信仰告白」が告げるように、「福音の説教と聖礼典の執行」の重視です。教会改革は、一つの結果でした。

 

この日の旧約は、ルターの行動と似通っています。エレミヤは「涙の預言者」と知られています。時の宗教者たちが世間に甘言を弄するのに対し、エレミヤは「真の神」への立ち返りを求める。人々は彼に耳を傾けず、彼は落涙する。その彼がこの日は、神さまの取り決め、つまり律法が、石板でなく、人の心に刻まれると語ります。それほどの出来事が起きることをエレミヤは予見する。「互いに教えあうことがなくなる」「新しい契約(31)」なのです。

 

主の時代には、律法を事細かに「教える」ファリサイ派がいました。その意図は、「律法の勧め」でした。ファリサイ派の名の意味は「区別」でしたが、彼らが世間を神さまと分断することもありました。主は「律法の実行によっては誰一人義とされない(ローマ書)」ことを示すため、ご自身を十字架に上げ、復活によって「神、共にある」ことを示されたのです。神さまとの分断でなく、一致。正確に言えば「神さまのお近づき」が主の語る本意でした。

 

ルターも同様。「献金箱への献金が、煉獄からの魂の救済」と語った当時の説教者を糾弾し、「神、共にある」ことを述べた主のことを伝えたのです。この世では私たちは日々、多くの分断に立たされる。目撃する。その渦中に立つものです。分断に立ち向かう、いわゆる英雄ではなく、むしろその中に生きる私たちの魂を支える方、主イエスに思いを向けたい。主が私たちの心に刻むみ教え、それは「神さまは、あなたを愛してくださる」ことなのです。

 

 

 








2021年10月5日火曜日

10/2.3 午後の礼拝堂

 

 9/26(日)礼拝前の防府チャペルとなります。

 この日も9月末日らしからぬ暑さでした。

 礼拝堂のクーラー、聖壇の扇風機はまだ活躍中です。

 9/26(日)朝の徳山チャペル礼拝堂です。

 東の空からの光がステンドグラスを照らしています。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

   
10/6 水曜日  六日市チャペル礼拝
 
10/7 木曜日 牧師 出張のため大阪へ
 
10/9  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
10/10  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      
       15時30分 防府チャペル礼拝
  
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

  マルコによる福音書10:2-16 (新共同訳聖書、新約81ページ)

 説教             「置かれた場で最善を尽くす」 

人と人が、結ばれる時には喜び、分かたれる時には痛みがあると思います。それは、本日の聖書「結婚」の事柄でも言えます。お一つおひとつのご事情の中での出来事と選択があり、熟りょと悩みの中の決断を、第三者が軽々に言えることは何もありません。しかしその「別れ」が、日課に登場します。持ち出すのはファリサイ派、答える主の言葉は、その言葉のみが切り取られ、近年までの一部の教派の「キリスト教倫理」とされたこともありました。

 

主のお言葉は「神が結ばれたものを、人が離してはならない(9)」です。しかしこれは、例えば岐路に佇む二人、胸を痛める一人といった「当事者」ではなく、「ファリサイ派(2)」に向かうものでした。その思惑は「イエスを試(2)」すこと。当時、自身の妻と離縁、自身の兄弟の妻も離婚させ、彼女と結婚した王がいました。(義理の妹と結婚したのです)。ファリサイ派はそれを踏まえ、「是」と答えても「否」と答えても、主を詰問する思いなのです。

 

いわば「閉鎖された問い」です。主は「律法順守」という彼らの立場を尊重し、ファリサイ派には「離縁は否」と答えるのです。この部分のみが切り取られ、「キリスト教は離婚を禁止している」ということが広められたのです。一方で主は帰宅後、弟子たちに真意を説明します。主は弟子たちに、時の領主ヘロデを念頭に置いて発言します。この主のお言葉の中で覚えたいのは「罪な行為を向けられた」女性の思いを顧みられていることなのです。

 

「岐路に佇む」「心中の痛み」はいくつもあります。この日の聖書のような出来事、何かを守るため、何かを失うことを迫られる選択、何かを得るため、何かに犠牲を負わせる選択。そのどれもが、私たちを「佇ませ」ます。続く聖書も「主による癒し」を願う親たちの物語。弟子たちに排除されても、親たちは主に子どもを託す。かつて、佇んだ私たち、これからも佇むことでしょう。その私たちに主が招きの手を伸ばすので、祈り,思いを託したい。