2022年6月28日火曜日

6/25.26 ホタルブクロ、厚狭と頑張るアサガオ

 

6/26(日)徳山チャペルの外の様子です。

コンクリートの割れ目から芽を出したアサガオが、開花しました。

さかのぼって6/25(土)厚狭教会。

外壁塗装が、担当牧師と信徒の方々によって為されたとのことです。

厚狭教会内部。あたたかみのある教会です。

さらにさかのぼって、6/22(水)の六日市礼拝。

この日の献花は、会員宅の庭の「ホタルブクロ」でした。

いましも、河川沿いでは蛍が乱舞しているのでしょう。

6/15(水)18:45ごろに撮影した六日市の空。

日が長くなりました。


今週、来週の予定は以下の通りとなります。

6/29 水曜日 六日市チャペル礼拝 ※牧師の都合で、家庭礼拝となります。

7/2  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/3 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

7/6 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

7/9  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/10  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカluke 951-56 (124)

51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。 56そして、一行は別の村に行った。

 説教               「滅びを望まず」 

「ああ主のひとみ、眼差しよ(教団243)」の讃美歌は、和製となります。主の眼差しの中に導かれた牧師が、半生を振り返って作詞したものです。日課にも、主の瞳が「向かう、振り向く(5155)」という言葉で表されています。主ご自身の向かう先は、「全人類の救い」としてのエルサレム(51)でした。しかし、歩みの中で近しい弟子たちの心が不安や不穏に満ちるなら、そこに瞳を向けるのです。主の思いが、今の私に向かうことを聞きましょう。

 

ユダヤとサマリアの感情の行き違いは、主の時代明らかなものとなっていました。主の時代から700年前の事象が契機の出来事は、主の時代には修復不可能なものとなっていました。その一つが「礼拝の場」でした。サマリア人たちの聖地はゲリジム山(ヨハネ420)、しかしユダヤ人たちにはエルサレムが聖地でした。53節でサマリア人たちが主の一行を歓迎しなかったのは、ここにあります。自らの聖地が、蔑ろにされたと思ったのです。

 

サマリア人のその様子を見た弟子のヤコブとヨハネは、過激なことを言います。「天から火を…(54)」の部分です。要は、自身の手で焼き討ちを始めるか、滅びを神の奇跡に委ねる思いだったのでしょう。主はその二人を振り向いて戒められます。主の思いは、エルサレム、サマリア人、二人の弟子それぞれに注がれています。一方で、サマリア人、二人の弟子は自身の手元や思いにのみ、気持ちを左右させられています。これが人の限界です。

 

この二人の弟子には「雷の子(マルコ317)」というあだ名がありました。この日に似た出来事の前科があったのかもしれません。しかしこのあだ名は定着しませんでした。ヤコブはやがて最初の殉教者、ヨハネは愛の使徒として、手紙をいくつも残すのです。主の眼差しを受けるものはその思いや生き方が変えられるのです。この認識の中で私たちは日々、過ごしたいと思います。その中で他者に向かう眼差しも、整えられるものでしょう。






2022年6月21日火曜日

6/15.18.19 六日市のアジサイ

6/18(土)柳井礼拝所の様子です。聖霊降臨節に入り、聖壇は緑になりました。
6/19(日)防府礼拝所の様子です。聖霊降臨節に入り…こういうことも、あります。
6/19(日)防府礼拝所に足場が組まれました。

3月の突風によって破損した尖塔部分の補修が始まりました。

6/19(日)せっかくなので、足場に上って写真を。奥が牧師館です。
6/21(火)徳山礼拝所の写真です。聖霊降臨節に入りました。
6/15(水)六日市礼拝所の様子です。

会員の方が、庭のあじさいを持参されました。

召天されたお母様が、鉢から育てられ、植えられたお花ということです。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

6/22 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

6/25  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/26 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

6/29 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

7/2  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/3  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカluke 8:2631.38-39 (119)

26一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、喚きながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」

29イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖で繋がれ、足枷を嵌められて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。

30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。

38-39 イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」

日課の場所はユダヤから見て、対岸の「異邦の地」、そこにある人がいたのです。それは「悪霊に取りつかれた」男でした。彼が受けていた扱いは、古代から近現代までの「関係性の断絶」でした。もともと彼は、何かの疾患を得て、町内で拘束されていました(29)。しかし脱出後は、無関心・放置でした(30)。彼は、主が岸辺に到着するや、近づきます(27)。ところが主に、「かまうな(28)」と叫びます。答えた名は「レギオン(30)」。これは「大勢(軍団)」という意味で、あまたの「苛む」声が心中に飛び交っていたのでしょう。

 

主の姿は「関わる」首尾一貫したものです。彼の耳に届くように「悪霊への関り(29)」を語り、人格を尊重するという意味で「名を尋ね(30)」ます。病み患いを願う人は、誰もいません。しかし病は様々な形態で、私たちや近しい人々の日常に忍び込みます。古代という枠組みの中でしたが、手かせ、足かせ、無関心という扱いの中で彼も苦しんでいたのです。主はその彼の思いを悟り、病と彼とに向き合ったのです。それは彼に、幸いと言えます。

 

主は彼に「帰宅しなさい(39)」と言われます。自分の共同体に「足かせ」なく復帰する勧めです。その原点は彼の「音を上げる」姿にありました。聖書には、「本人のみが知りうる情報」が多彩です。文中、行間で主は、この彼から思いを聞いた、ないし、彼が自発的に境遇を語ったのです。「おかれた境遇、状況」そしてそこから出ずる思いを祈りとして「音を上げる」言い方を帰れば「祈る」日々を送りたいのです。主は祈りを聞いて下さいます。