6/26(日)徳山チャペルの外の様子です。
コンクリートの割れ目から芽を出したアサガオが、開花しました。
外壁塗装が、担当牧師と信徒の方々によって為されたとのことです。
厚狭教会内部。あたたかみのある教会です。さらにさかのぼって、6/22(水)の六日市礼拝。
この日の献花は、会員宅の庭の「ホタルブクロ」でした。
いましも、河川沿いでは蛍が乱舞しているのでしょう。
6/15(水)18:45ごろに撮影した六日市の空。
日が長くなりました。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
6/29 水曜日 六日市チャペル礼拝 ※牧師の都合で、家庭礼拝となります。
7/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
7/6 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
7/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカluke 9:51-56 (新124)
51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。 56そして、一行は別の村に行った。
■ 説教 「滅びを望まず」
「ああ主のひとみ、眼差しよ(教団243)」の讃美歌は、和製となります。主の眼差しの中に導かれた牧師が、半生を振り返って作詞したものです。日課にも、主の瞳が「向かう、振り向く(51,55)」という言葉で表されています。主ご自身の向かう先は、「全人類の救い」としてのエルサレム(51)でした。しかし、歩みの中で近しい弟子たちの心が不安や不穏に満ちるなら、そこに瞳を向けるのです。主の思いが、今の私に向かうことを聞きましょう。
ユダヤとサマリアの感情の行き違いは、主の時代明らかなものとなっていました。主の時代から700年前の事象が契機の出来事は、主の時代には修復不可能なものとなっていました。その一つが「礼拝の場」でした。サマリア人たちの聖地はゲリジム山(ヨハネ4:20)、しかしユダヤ人たちにはエルサレムが聖地でした。53節でサマリア人たちが主の一行を歓迎しなかったのは、ここにあります。自らの聖地が、蔑ろにされたと思ったのです。
サマリア人のその様子を見た弟子のヤコブとヨハネは、過激なことを言います。「天から火を…(54)」の部分です。要は、自身の手で焼き討ちを始めるか、滅びを神の奇跡に委ねる思いだったのでしょう。主はその二人を振り向いて戒められます。主の思いは、エルサレム、サマリア人、二人の弟子それぞれに注がれています。一方で、サマリア人、二人の弟子は自身の手元や思いにのみ、気持ちを左右させられています。これが人の限界です。
この二人の弟子には「雷の子(マルコ3:17)」というあだ名がありました。この日に似た出来事の前科があったのかもしれません。しかしこのあだ名は定着しませんでした。ヤコブはやがて最初の殉教者、ヨハネは愛の使徒として、手紙をいくつも残すのです。主の眼差しを受けるものはその思いや生き方が変えられるのです。この認識の中で私たちは日々、過ごしたいと思います。その中で他者に向かう眼差しも、整えられるものでしょう。