2023年1月31日火曜日

1/25.28.29 徳山の雪と礼拝堂

1/25(水)朝5時の徳山。5センチの積雪でした。
1/28(土)柳井の礼拝堂。雪解けもして、平和な土曜日でした。
1/29(日)徳山の礼拝堂。朝の光が礼拝堂に来ています。
1/29(日)防府の礼拝堂。穏やかな日曜日の午後でした。

この寒さの中で、ついに、こたつに電気を入れ、居座るようになりました。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

1/25 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝 

2/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/5 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/8 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

2/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/12 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

 マタイ 5: 14 (6)

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。

腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、

その人たちは慰められる。

 説教            「幸せは、明日起こる」 

「日本の原風景が、徳佐にある」と、身近な引退教職が話されていました。確かに、徳佐に「田畑に川が沿い、奥に山が控える」風景があります。冬も、豊かな自然を感じます。聖書で歌われている自然の中に、詩編42編(口語訳聖書)の「鹿が谷川を慕いあえぐ」が有名です。「谷川」も、原風景であり、豊かな自然の一産物です。ただ原意は「涸れた谷」という新共同訳聖書だと言われます。「魂の飢え」が詩編42編のテーマでもあるのです。

 

「心が渇く、魂が空になる」とは、主が直面していた人々の思いと言えます。私たちは「心が貧しい」とは「精神が未熟」「人間的な難物」と思えます。しかし3節は明確に「神の霊を求める人は(聖霊/プネウマを求める人は)」と記すのです。これは、当人の人間性を問う言葉ではありません。むしろ「詩編42編」が歌う「確かに存在する神の愛、優しさ、導きを乞い求める人たち」「神の愛を語ろうとしない人々への批判」への主イエスの視線です。

 

 同様の理解が「悲しむ人(4)」にも当てはまります。主の居られた地域は「ガリラヤ」で、「病み患う人々」が目前にいます。「悲しみ」とは、誰か他者が思いを向け、他者から心を傾けられることで、無くなりはしないものの、和らぐことがあると思います。主の周囲にいた人々は、共感されることを欠いていたのです。「無関心、寄る辺の無い悲しみ」です。主はその「悲しむ人」に向かい「慰められる」と、慰めの主体となる、と弟子たちに告げるのです。

 

当時、顧みられなかった人に主が思いを向けた。キリスト教の原点です。本日の第一朗読、ミカ書も同様の観点で記されています。「あくどい政治に苦しむ農民」に共感し(ミカ22)、北部の惨状を意に介せず、豪勢な奉納物を捧げる富裕層の現状を見(65-7)、神さまを支えとする生 (68)への勧めが為されます。主は、ミカの言葉を借りれば、自ら「へりくだって」この世に来られ「共に歩む」のです。神の霊を求める、全ての人のために。

 

 

 

2023年1月24日火曜日

1/21.22 礼拝堂と寒波の中のネギ

 

 1/24(火)寒波の訪れを控えたネギたち。

気のせいか、ネギの歯ごたえが強くなった気がします。

この日の蕎麦に頂きました。

 1/22(日)防府チャペルです。

 いつもとは角度を変えて撮ってみました。

 礼拝では、誕生日を迎えられる方、療養中の方を覚えて祈りがなされました。

 1/21(土)柳井チャペルの様子です。

 礼拝後、寒波を予想して、元栓締めを行いました。

 

 1/24(火)現在、周南市内に暴風雪警報が発令中です。

 午前中は「寒波??」と思える陽気でしたが、午後は一変。

 気温がみるみる下がっています。現在0度。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

1/25 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

1/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/29 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/1 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

2/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/5 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 イザヤ書8:239:3 (1073)

 マタイ4:1222 (5)

 説教            「今日があなたのスタート」 

紀元前722年、北からの「アッシリア捕囚」は、南ユダ王国にも迫りました。特にイスラエル北部への事案に、南の預言者イザヤは「苦悩の中の人々(イザ823)」を思い浮かべます。イザヤの心は彼らへの「辱め」を悼み、「後に栄光を受ける(23)」と、精一杯の預言を聞き、語ります。転じて主の時代、イスラエル南北間のひずみは、「侵略時」から更に混乱していました。そこに主が、語り継がれたイザヤの預言を実現させようとするのです。

 

「ヨハネの捕縛(12)」の遠因は何か。旧守派である一部のユダヤ教宗教者の怨念と、性向を非難されたヘロデの怒りの結実と言えます。その際の主の行動を、福音書は「退いた」と明確に記します。文字通りの「活動場所の転身」の意味もあります。退かなければならない時もあるのです。ヨハネの活動は「預言者的」つまり非難が中心に来るものでした。一方で主は、非難の要素は後々登場しますが、先ず「神の愛の告知」を語られるのです。

 

「暗闇の民に光が」というかつての使信を携え、主は漁師たちの所に出かけます。主の弟子取り物語は、福音書で差があります。よりドラマチックで、分かりやすいルカ、よりミステリアスで、不思議なマタイ。マタイの場合は、主は唐突に二人の漁師たちに「人間を取る漁師にしよう」と声をかけ、二人は即座に主の弟子になるのです。「人間の漁師」という主の言葉は、確かにこの二人に響いたのです。一体、どういうことが起きて、何が契機か。

 

湖の中で魚が溺れることはあり得ません。しかし、経済を中心とする人の世の中で、600年間の被差別地域であるガリラヤという場所の中で、苦闘するのが彼ら漁師たちでした。主が彼らと知り合いだったかは不明です。しかしここで主は彼らと共に生き、他の人々も「救う」と決意されます。「救い」とは不明瞭な言葉ですが、「傍に置く、共にある」ということでしょう。その弟子がペトロたちであり、ペトロを通して今の私に繋がるのです。