1/29(日)徳山の礼拝堂。朝の光が礼拝堂に来ています。
1/29(日)防府の礼拝堂。穏やかな日曜日の午後でした。
この寒さの中で、ついに、こたつに電気を入れ、居座るようになりました。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
1/25 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝
2/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
2/5 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/8 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝
2/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆ マタイ 5: 1~4 (新6)
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
■ 説教 「幸せは、明日起こる」
「日本の原風景が、徳佐にある」と、身近な引退教職が話されていました。確かに、徳佐に「田畑に川が沿い、奥に山が控える」風景があります。冬も、豊かな自然を感じます。聖書で歌われている自然の中に、詩編42編(口語訳聖書)の「鹿が谷川を慕いあえぐ」が有名です。「谷川」も、原風景であり、豊かな自然の一産物です。ただ原意は「涸れた谷」という新共同訳聖書だと言われます。「魂の飢え」が詩編42編のテーマでもあるのです。
「心が渇く、魂が空になる」とは、主が直面していた人々の思いと言えます。私たちは「心が貧しい」とは「精神が未熟」「人間的な難物」と思えます。しかし3節は明確に「神の霊を求める人は(聖霊/プネウマを求める人は)」と記すのです。これは、当人の人間性を問う言葉ではありません。むしろ「詩編42編」が歌う「確かに存在する神の愛、優しさ、導きを乞い求める人たち」「神の愛を語ろうとしない人々への批判」への主イエスの視線です。
同様の理解が「悲しむ人(4)」にも当てはまります。主の居られた地域は「ガリラヤ」で、「病み患う人々」が目前にいます。「悲しみ」とは、誰か他者が思いを向け、他者から心を傾けられることで、無くなりはしないものの、和らぐことがあると思います。主の周囲にいた人々は、共感されることを欠いていたのです。「無関心、寄る辺の無い悲しみ」です。主はその「悲しむ人」に向かい「慰められる」と、慰めの主体となる、と弟子たちに告げるのです。
当時、顧みられなかった人に主が思いを向けた。キリスト教の原点です。本日の第一朗読、ミカ書も同様の観点で記されています。「あくどい政治に苦しむ農民」に共感し(ミカ2:2)、北部の惨状を意に介せず、豪勢な奉納物を捧げる富裕層の現状を見(6:5-7)、神さまを支えとする生 (6:8)への勧めが為されます。主は、ミカの言葉を借りれば、自ら「へりくだって」この世に来られ「共に歩む」のです。神の霊を求める、全ての人のために。