2/8(水)朝の徳山礼拝所。
少し時間がたった、10時前後です。
梅一輪のたよりまで、もう少し
献花が良いですね。
一応…。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
2/8 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝
2/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
2/12 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/15 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝
2/16 木曜日 15時 牧師 大阪出張
2/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆ マタイ 5:13~20 (新6)
13「あなたがたは地の塩である。だが、
塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも
立たず、外に投げ捨てられ、
人々に踏みつけられるだけである。
14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者は
いない。燭台の上に置く。そうすれば、
家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に
輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
■ 説教 「目立たない地の塩でも」
「地の塩、世の光」は、弟子たちへの言葉です。弟子たちは受け止め、他に伝え、回り回って私たちは「誰もが、大切な存在」だと聞くのです。「自己肯定感」を得られる言葉です。しかし弟子たちが「重荷を負う人、病み患う人々」にこれを伝える時、どう届いたのか。「自己肯定感」とは大切な考えと言えますが、言葉だけで得られるものか。ところが、聖書を読む時に、主の意図に驚きます。そして、弟子たちもやがてこの言葉を実感するのです。
主は、神の原初の創造物という意味での「光」ではなく、「地の塩」から語ります。塩とは、ユダヤでは防腐薬(レビ2:13)、清めの媒体(列下2:21)、調味料(ヨブ6:6)。昔や今の日本と同じです。「給料(salarium:サラリーの語源)」として、塩を買う「俸給」の意味もローマにあったようです。更に、あり得ない「塩から塩気がなくなる」ことから、それぞれに「持ち味」「そのものにしかない役目」を告げるのです。「役割と意味がある」ということです。
では人々の「役割と意味」は、どこで発揮されるのか。主が「地」と語られたことが大事です。畑や砂交じりの土地に塩を撒けば(こぼせば)、その時は目立ちますが、やがて見えなくなります。「地の塩」とは、目立ちませんが、日々の働きなのです。「存在」とも言い換え得ます。一方で、「世の光」は、燦然と輝くもので目立ちます。物事には陰陽があり、目立つものの対照に、支えるものがあります。その意味で主は、話される順も大切にされるのです。
その意味で私たちは「世の光、地の塩」ではなく、「地の塩として、世の光」なのです。働きは見え難く、地道かもしれない。しかし「存在」を誰かが頼りにし、誰かを支えるから、この世は回るのです。第一朗読はイザヤ書です。慣例の宗教行事ではなく、日々自分の気付く所で、気付く善を行う促しです。塩でありたい、否、主が「地の塩」と最初に呼ぶことを覚えたい。仮に「重荷を負い、病み患う」ことがあっても、存在はこの世の「必要」なのです。