2021年3月28日日曜日

3/27.28 礼拝堂

 

 3/28の徳山の礼拝堂です。

 照明を落としましたが、天然の光がステンドグラス越しに入ってきました。

 ちなみに、外は曇りです。

 こちらは3/27の柳井の礼拝堂。

 四旬節のお花が二つ、捧げられています。

 

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
3/31  水曜日 19時 六日市C礼拝 

4/3  土曜日 15時 柳井C礼拝 イースター 

4/4 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 マルコによる福音書 15615 (新共同訳聖書、新約95ページ)

 説教              「神の子に助けられたバラバ」

バラバという男。名は「アッバスの子」という意味で、ユダヤ民族と分かります。その彼は今、エルサレムの裁判所内の牢獄に留置中でした。罪状は「暴動時の殺人(7)」、いかなる趣旨の暴動かは不明ですが、結果として首都の治安を極めて悪化させ、「ローマ帝国」の顔に泥を叩きつけた政治犯でした。バラバは、他の二人と共に市中引き回しの後、十字架と決まっていました。ユダヤ人にとって十字架は、極めて不名誉 (23)」な刑でした。

 

同時に逮捕された二人は先に牢獄から出され、今、バラバの牢獄も開けられました。死への道行を覚悟したバラバ、しかし「無罪放免」が告げられました。その背後では、主イエスをめぐる出来事が起きていたのです。そもそも主は「無実の罪」あえて言えば「神殿騒乱罪」。今日の聖書にも「祭司長たち()・・・妬みのため(10)」という言葉がありました。裁判長であるローマ人ピラトにとって、主よりバラバを刑場に送ることが優先事項でした。

 

微罪の主を妬む祭司長たちが、群衆を扇動します。煽られた群衆はピラトに「(主を)十字架につけろ(12)」と願います。ピラトは政治的判断によって、自らの保身のため、バラバとイエスの刑を交換します。祭司長、群衆、ピラトが主の死に加担したのです。バラバは釈放され、一方でイエスはバラバの罪を負い、「政治犯として」他の二人と共に十字架に付けられた。後日、仲間や、自らの代わりに死んだ男を聞いたバラバの心は、如何だったか。

 

この日は「受難主日」です。罪なき主イエスが、様々な人の思惑の中で死を迎えられた、「主の受難」を覚える日なのです。このバラバの今後は、小説や映像作品では「伝道者」として描くものもあります。一方で、慎ましく生きたとも考えられます。赦された者の生き方は規定できず、それぞれ。その根本には、自らの身代わりとしての主イエスの存在があるのです。バラバと同じく、自身の身代わりとしての主イエスを思い、この週を過ごしたい。

 




2021年3月10日水曜日

3/6.7.10 礼拝と梅の花

 

 四旬節第三主日の礼拝は、柳井、徳山、防府で行われ、

 六日市でも行われます。

 こちらは徳山の礼拝堂です。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
3/10  水曜日 19時 六日市C礼拝 

3/13 土曜日 15時 柳井C礼拝 

3/14 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 ヨハネによる福音書 2章13~22節 (新共同訳聖書、新約166ページ)

 説教              「ただ、一度だけ」

喜怒哀楽という言葉があります。私たちも折に触れてこの感情を発することがあります。主イエスも実に感情豊かな方でした。今日の聖書は、4つの福音書すべてに記載されている「神殿の宮清め」の箇所です。大枠は一緒なのですが、このヨハネ福音書が特筆する事項があります。主が散らされたものは、他福音書では商人たちのみですが、この福音書では「羊や牛のすべて(15)」を含むのです。この記述は、実はヨハネの渾身の理解です。

 

元来、旧約では「スケープゴート」という言葉があるように、神殿の動物たちは、人の罪を背負うものとされていました。主が追散らした動物たちは、祭儀用でした。実際この様子を見た弟子たちが「詩編69(17)」を思い出します。この詩編には、他者を覚えての祈りに、疲れ果てて傷む人が登場します。詩編の人物と主のお姿が、他者のために痛みを被るという意味で重なります。主は、動物に代え自らを神さまへの生贄となさるつもりです。

 

その主のお気持ちは神殿祭司たちに理解されるはずなく、「ユダヤ人(宗教者)」たちに逆上されます(18)。「この神殿」を、主はご自身の身体とし、ユダヤ人宗教者たちは建物と見なしています。主の時代には立派だったこの神殿も、ヨハネ福音書が記載された時代には一部の壁(「嘆きの壁」)を残すのみでした。一方この福音書も、十字架後の復活の主イエスに出会う人々の記載があります。ここでも弟子たちは主の言葉を思い出すのです。

 

聖書の神さまは、元来は無条件での愛と赦しを賜う方でした。主の時代は神さまの愛と赦しを得るために、動物が「仲立ちに」入るシステムが出来上がっていました。主はその動物たちを退場させ、自身が「ただ、一度だけ」全ての罪を負う決意をなさったのです。私たちが祈りの結びに「主イエスのみ名によって」祈るとは、今日の聖書に由来すると言っても良いのです。喜怒哀楽を抱え生きる私たちに、主が共におられることを覚えて生きたい。