2022年8月23日火曜日

8/21 徳山と防府

 

 8/21(日)徳山の礼拝堂でした。撮影は先ほどのことです。

 少しづつ涼しくなってきた…と思いきや、残暑再来。

8/21(日)防府の礼拝堂です。

徳山と防府は、「椿峠」という峠を挟んでいるゆえか、天気がまったく違うこともあります。

その日の朝の防府の通り雨は中々の雨量とか。駐車場には水たまりが出来ていました。

礼拝の時間帯は、地面の雨が熱せられ、蒸していました。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

8/24 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

8/27  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/28 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

8/31 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

9/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/4  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

■ ルカ13:1017 (134)

10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に

取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 

15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

 説教                 「よく頑張った」 

「答えの出にくい問い」があります。聖書には「18年間」の「腰痛」の女性が登場します。病の期間と痛みも「答えの出にくい問い」と言えます。「どのようにして」痛むのかは分かっても、「なぜこの私が」「これほど」痛むのか、は分からないのです。宗教とは、「なぜ」に触れ、主イエスのような「癒し」に至ることを祈る働きと言えます。ところが主の時代、「宗教家」は、本来の働きを担いませんでした。また、働く主イエスに難癖をつけるものでした。

 

聖書は「安息日論争」です。主が安息日に人を癒し、咎めた宗教家を論破する。主の人気は高まり、宗教家は嫉妬するという内容です。主の趣旨は、安息日の破壊ではなく、意義の再確認です。実際、主はことごとく安息日に働くかというと、違います。聖書は「ある会堂で教えていた(10)」、ルカ4章でも同様です。当時としては画期的な、「神さまの愛」をお伝えしていたのでしょう。と、主の前に「18年間の腰痛」を抱えた女性が見えるのです。

 

主は女性を癒しますが、十戒を引用し(出エジ2010)た会堂長にとがめられます。「仕事をしてはいけない」日になぜ仕事をするのか、という趣旨です。ただ、安息日に仕事を禁ずる理由は「安息日を聖別する(出エジ208)」=神さまのことを思う日だからです。18年間病んでいたこの女性は、18年間病の理由を神さまに問い続けたとも言えます。主の癒しは、病だけを直すものではないのです。病み患う当事者の歩みにも寄り添うのです。

 

病の原因をサタンに帰すのは、古代の感性と言えます。大事なことは「束縛から解く(16)」という主のお言葉です。一人のために、自身が後ろ指をさされることを厭わない主の原点は「対象の心を楽にする」というものです。「答えの出ない問い」に対する答えを主イエスはすぐには下さるものではないと思います。むしろ、引き受けつつ歩む私たちの心に寄り添う方と言えます。週日は忙しい私たちは、「安息日に」神さまに問う思いを得たい。