8/14(日)防府の礼拝堂です。
入院されていた方が退院なさいました。そのことを主に感謝する祈りも捧げられました。
礼拝前には、隣家からの風鈴が静かに響いています。
いわゆるお盆の初日、少人数でしたが、礼拝が行われました。
趣きのある、静かな礼拝堂でした。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
8/17 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。
8/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
8/24 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
8/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカ12:49~56 (新133)
49「わたしが来たのは、地上に火を投ずる
ためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむこと
だろう。あなたがたは、わたしが地上に
平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ
52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して
分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」
■ 説教 「今の時を生きる中で」
主の時代や福音書が編集された時代は、ユダヤの人々には「危機の時」でした。「今と昔の状況」を同列で単純に比較し、検討することは難しいですが、例えば「二元的な政治体制」「不誠実な宗教家」「乱暴な収税士」などが聖書の告げることです。「今の時」に対しても私たちが抱く思いはそれぞれです。主は先週に続き「ミカ書」を引用なさいます。圧政に苦しむ農民への、神からの助けを説くミカと、自身の活動を重ね合わせるのでしょう。
49-50節では一つ目の「火」聖霊についてです。弟子たちを内部から鼓舞する聖霊の登場の過程は、50節からです。主は、やがて受けられるご自身の「洗礼」十字架を明言されます。弟子たちはその段に至っても主を支えず、逃走します。復活後の主に出会っても、目前の恐怖に負けます。今の弟子たちの心を鼓舞する火があればと、「願っている(49)」のです。主はやがてご自身の代わりに聖霊をこの世に現し、その弟子たちを導くのです。
51節からは二つ目の「火」分裂についてです。福音書の時代は、まさに「家庭内分断」が起きていました。「キリストの輩(使徒11章)」と侮蔑的に呼ばれた紀元30年代、紀元90年代には会堂からの追放が会議決定され、肩身の狭い思いを強いられた時代。ルカ福音書の主がなぜミカ書を引用されたか。先週の結論と同じになるのですが、「苦難の渦中において助け、救い、共にある方」を語るためだったのです。私たちへの使信です。
主は50節で「どれほど苦しむか」と言われます。主ご自身も苦しみと無縁ではなかったのです。果敢に(時に迷いつつ)立ち向かう主とは対象的に、迷い続ける弟子たちは私たちと重なります。目前の事柄に弱いのです。ルカ福音書は、主がそのような人の現実の只中に降誕されたこと、ミカ書がその主を預言していたことを覚えたいのです。「恐れることはない、私はあなたと共にいる神(イザヤ41章)」。苦難の時にも覚えたい言葉です。