2021年2月21日日曜日

2/20.21 梅と教会

 

 こちらは、2/20の柳井チャペルの玄関です。

 柳井は白梅となります。

四旬節の礼拝が始まりました。

紫の典礼色を用いています。こちらは2/20の柳井

これは、2/14の防府となります。

防府は紅梅。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
2/24  水曜日 19時 六日市C礼拝 


2/27 土曜日 15時 柳井C礼拝 

2/28 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 マルコによる福音書 1章1213 (新共同訳聖書、新約61ページ)

 説教              「苦しみを越えるために」

私たちは人生の中で「苦しみ」に出会います。心身を傷めるその出来事は、それぞれに異なるものがあります。「苦しみ」を「試練」と呼び変えることもあります。前者は単独。後者は「試み、練られる」という、主従を思わせる文字が使われています。そこから試練とは、神さまとの関わりの中での「苦しみ」と理解できます。本日の聖書は、「荒野の苦しみ」でなく、「荒野の試練」と知られています。「荒野」の最中で、神の支えを主は示されるのです。

 

10年前、「東日本大震災」の被災者の一人、山浦玄嗣医師は当時を思い「なぜ、と問わない」「渦中にあっては、生きることに一生懸命で、試練の意味は問わない」と語ります。確かに、「苦しみ」の中では「試練」と思えないほどに、手元足元の処理に負われます。しかし今、会堂や集会で「神さまからの愛」と「試練」が「送り出す(12)」という言葉でつながっているみ言葉を聞いています。神さまの愛と試練が、「なぜ」つながるのでしょう。

 

ひとえに対処法を示す為です。「荒野の試練」の渦中で、「野獣」の中、「天使」が仕えていたとあります。ここで、唐突に野獣が登場します。この描写は、アドベントの時に読まれる「イザヤ11(狼は子ヤギと共に臥し…)」などを思い出させるものです。困難は確かに存在するけれど、それらは必ず、神さまの御手の中で調和に至るのだという聖句です。「天使」は「メッセンジャー」み言葉のことです。その旧約のみ言葉を想起するという示唆です。

 

「種々の困難が調和する」とは何か。目前の困難が、良い方向に導かれるという約束になります。諦めず、祈りつつ、目前の困難に取り組みたい。それを示すため、神は主を荒野に送り出したのです。主が荒野に滞在された「40」という数字とは、「試練の日数」「一世代」を表す言葉です。生涯は、苦しみの連続ではなく、試練の連続なのです。どんな苦しみの最中にあっても、神さまは関わって下さる。その意味での「試練」を主と共に越えたい。

 


2021年2月9日火曜日

2/6.7 礼拝堂と外の花壇

こちらは、柳井チャペル正面玄関の左スペースです。

「一粒の麦」職員や、教会員によって手入れがなされています。

こちらは、2/7の防府チャペルの礼拝堂となります。

来週は白。主の変容主日となります。

こちらも、2/7の徳山チャペルの礼拝堂です。

天上の布はそろそろ仕舞い、四旬節に向かいます。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
2/10  水曜日 19時 六日市C礼拝 

2/12 金曜日 13時 西教区女性会総会 於:徳山

2/13 土曜日 15時 柳井C礼拝 

2/14 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 マルコによる福音書 1:2934 (新共同訳聖書、新約62ページ)

 説教              「病める者への関わり」

神さまや主イエスは、信仰者の(未信の)家族にどう関わるか。具体的に私たちは、家族、知人にどう関わるか。ユダヤ教社会の中でキリスト教徒が少数派だった時代、その問いをマルコは、今日の主を思い起こしながら解きほぐしたに違いありません。「心に覚える、とりなす信仰」が結論で、今日の聖書に書かれていることです。今日の前置きは、先日の聖書、マルコ116以下にある「すぐに(118.19)」動く漁師たちと主の姿となります。

 

漁師たちが弟子とされた時、既にペトロの姑は熱病でした。漁師たちは「すぐに」弟子になりましたが、主も「すぐに(29)」ペトロの家に行きます。伝える者がいなかったので、主は姑の熱を知りません。しかし一刻を争うように主は姑のもとに「すぐに」行かれる。姑の家で主が彼女の手を取ると、病は癒えます。この奇跡には主の ①病の理由である「悪霊退さん」が出来るお方 ②弟子の家族をも顧みられる方、との二つの意味があります。

 

②の展開で、主は、私たちの家族への顧みという暖かな使信を今日、得たい。加えて大事なこと、それを受けた私たちの歩みとなります。30節で「彼女のことをイエスに話した」人々の姿が書かれています。時系列を見ると、この出来事は「癒しの前」です。病み患う両親や子どもの代わりに、医師にその様子を説明する経験はないでしょうか。ここで人々は「主に姑をとりなす」のです。これは私たちに、「身近な人を覚えて祈る」と展開できます。

 

そして主はこの後、主にしか出来ない「とりなし」を行います。「十字架と復活」で、全ての人に御国が開かれたのです。「とりなされた」つまり、「神さまや主イエスと顔なじみになる」ことです。いずれ、時が来たら「神さまや主に相まみえる」ことになります。その日まで、主が私たちの特に「病める」家族に関わって下さることを覚えたい。「直ぐに」出かけて下さった今日の聖書を思いつつ、深めたい。祈られる者から、祈る者へと導かれたい。