2021年2月2日火曜日

1/30.31 礼拝と外からの教会

 

外からの教会を撮影することを思い立ちました。

こちらは1/31の徳山チャペル。


こちらも、1/31の防府チャペル。

冬晴れの空が広がっていました。

 

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
2/3  水曜日 19時 六日市C礼拝 

2/6 土曜日 15時 柳井C礼拝 

2/7 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 マルコによる福音書 1:2128 (新共同訳聖書、新約62ページ)

 説教           「イエス・キリストはあなたに近づく」

聖書の教えとは、「光あれ(13)」と言われた神さまのお言葉が端緒で、帰結です。神さまのお言葉から全てが始められたのです。ところがその後の歴史の中で、神さまからの愛ではなく、神さまへの感謝のお返しという聖書の教えの一部分のみが取り上げられ、人間の行い、勲功、努力を問うようになりました。これには宗教体制の維持の理由がありますが、主はその時代に登場し、「神さまが近づいて下さる」信仰の言葉を語ったのです。

 

カファルナウムは弟子とされた漁師たちの町、主のことを知る町でした。この町の人は、主の聖書の解き明かし(21)に「権威(22)」を感じます。これは例えば「原稿/専門書丸読み」ではなく、熱を込めた自分の言葉、教条的な教えではなく、元気が出る教えを言い表すものです。ここに、「汚れた霊に憑かれた人(23)」。当時、病は悪霊の仕業と目されました。その時代の中で、人を癒すとされた言葉(25)を言われ、この病を直されるのです。

 

主の癒しの御業には、二つの解釈があります。一つは、病の理由を汚れた霊に帰す時代、その時代に相応しい癒しを行った「医師」としての主の姿。もう一つは、関わりを持とうとする「共にある方」としての主の姿です。この人は、おそらく自意識の他に「汚れた霊」と見做される意識を持っていたのでしょう。一方で、元の意識には「旧知である、ナザレのイエス(24)」を覚えていたのです。「かまわないで」という気持ちの裏を主は聴くのです。

 

主の癒しを見た人々は、ここでも(27)「権威」に驚きます。時の宗教者から失われて久しい「神さまの御業」を、人々は目の当たりにしたのです。この話を私たちは、どのように自分自身の歩みに適用できるか。病の原因を汚れた霊に帰す、という考え方は、前時代的と言えるでしょう。むしろ、「共にある方」「関わるお方」として主を思う信仰を得たい。主は私たちの心に、急に差し込む「闇」に、「光あれ」と言われ、ご自身も傍にいて下さるのです。