2023年4月26日水曜日

4/21.22 柳井、防府、徳山 そしてジャガイモ畑

 

4/23(日)徳山の菜園に、ミニトマト、ナス、ピーマンを植えました。

奥はジャガイモ。

4/23(日)防府の礼拝堂となります。

気付けばもう、4月も月末。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。 


4/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

4/30 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/2  火曜日 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です。

5/6  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/7  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。 

聖書 ルカ福音書 24:1327.3035(160)

 説教                「完成を目指して」 

「暗い顔(17)」等の表情は、心の表れです。そこに「心配」が加えられる時、「共同性」が生まれます。さて、出エジプト記3章は「モーセの召命」です。その折の「燃え尽きない、燃える柴」で、可燃物である柴が、着火源である神さまと反応します。「燃える」という言葉は、この日も登場します。復活の主である「ただの人」から聞いた聖書の解説を思い出し、「心は燃えていた(32)」と言います。主が彼らの心に、熱意を取り戻させた経緯を聞きたい。

 

ルカ福音書は、主の復活を聞いた弟子たちの、当初の反応を「たわ言(2411)」「常軌を逸した、無駄話」と記します。その後、初出の弟子であるクレオパ含む二人が「エマオに行き」ます。「たわ言」の内容は「主の体の不在(243)」も含みます。噂から、早晩、自分たちにも捜査が及ぶことを危惧し、安全を確保するための逃亡と思えます。その歩みに、主が近づきますが、彼らは主とは分からないまま、対話を続けます。中の一言に注目です。

 

彼らは主が、人々の前で「行いにも言葉にも力」があったと「ただの人」に向けて証言します。聞き手が実は主だから良いものの、勇気ある証言です。「犯罪人」の主を、賞賛しているのです。「たわ言」と思いつつ、「主を懐かしむ」彼らの心を主は見られます。主は、「聖書全体の解説(27)」をされます。ルカ福音書の特徴は「神の降下(ルカ2)」です。旧約にも、心を揺らす人々は登場します。神が昔から、事柄を通し、支えることを示されたのです。

 

宿屋にて、最後の晩餐の再現を主がパン割きで示すと、弟子たちは主だと分かります。そして「心は燃えていた」と振り返るのです。感動、感謝、喜び。そういう概念が弟子たちの「アンビバレント」=揺れる心の最中に示されたのです。冒頭のモーセも同様でした。神や主イエスは、私たちが迷い、戸惑う時を選び、現れる傾向があると思います。主は「暗い顔をしている」弟子たちを案じます。主ご自身は、いつも私たちの心を気にかけるのです。

 

 

 

 

 

 

 


2023年4月11日火曜日

4/8.9 イースター礼拝

 

 4/9(日)防府礼拝所のイースター。

4/9(日)徳山礼拝所、玄関のブナも新緑をまとっています。

 

4/8(土)柳井礼拝所のイースター。洗礼式が行われました。


今週、来週の予定は以下の通りとなります。 

 

4/12 水曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

4/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

4/16 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/18 火曜日 18時30分 六日市チャペル礼拝 

4/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/23 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 説教                「神は人を通して働く」 

復活祭に先立つ2週間、多くの方のご葬儀に祈りが発せられました。意味は何か。お一人ひとりが主の働きを通し、神さまに覚えられたのです。主の働きは、マタイ福音書が「正しさ」という言葉を通し問います。当時の常識は「律法順守」、しかし主の父ヨセフは、「律法順守」ではなく、妻と子の命に寄り添うことをマタイは「正しい」とします(119)。その父の元、主イエスは、人々と共に生きることを受洗で示し「正しいこと(315)」と言われます。

 

主イエスの葬られた墓には封印が為されていました。どういう経緯か。この墓は、アリマタヤのヨセフのものでした。彼は主イエスの十字架後の夕方、人々の模範である議員という立場から、日没前に主のご遺体を墓に納め、大石を転がしたと見なせます。一方で祭司長たちは「あくる日(2762)」つまり安息日に、主の墓に封印をする願いをピラトに求め、許可を得て墓に行き、封印を施すのです。こちらは、安息日の労働に該当するのです。

 

マタイはここでも「正しさ」を問います。ヨセフや祭司長は「正しさ」が求められる立場です。ヨセフは、律法の枠内(申2123(木に架けられた者の埋葬)」の行動で、かつ「犯罪者」として裁かれた主イエスと「共にあろうとする正しさ」を実行します。一方で祭司長たちは、主を安息日規定違反で逮捕させ、自分たちは安息日に動く「二重基準」です。今日にもあります。守るべき立場の人が、守るべきものを守らず、恣意的に動いているのです。

 

 祭司長の姿を笑うことは出来ず、ヨセフのような強さは持ちえない私たちがいます。むしろ、逃走していた弟子たちと同等なのでしょう。復活の主は、そのような弟子たちに「ガリラヤに行け」と女性たちを通して告げます。四旬節、様々な人の姿を聖書は語り、私たちは主のもとに送りました。復活の主の言葉「ガリラヤに行け」は、「原点に帰れ」「今の所から歩みだそう」との意味です。み国にある方々の歩みに主があることを思い、日々を生きたい。