2021年1月27日水曜日

1/23.24 礼拝堂

 

 こちらは、1/24の防府の礼拝堂です。

今週、検査を迎えられる信徒の関係者を思いつつ、礼拝に臨みました。

こちらは、1/24の徳山の礼拝堂となります。

墨痕ゆたかに「主題聖句」が掲げられました。

アクリル板で装丁が施される予定です。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
1/27  水曜日 19時 六日市C礼拝 

1/30 土曜日 15時 柳井C礼拝 

1/31 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。」

 

 説教                 「神がわたしを選んだ?」

牧師として派遣されるとき、始めの3年は「お見合い期間」と教えられました。ただこれは、あらゆる職種、住まう近隣の方々との関係構築にも言えます。今日の聖書で主は、ガリラヤ湖畔の4人の漁師たちを弟子にします。ここだけを見れば、漁師たちは突然主の弟子とされた。「突然のプロポーズ」を受けたことになります。当時のことを思いつつも、主の私たちへの関わりを見たい。

 

主の青年期について、断片的には「新約聖書関連文書」の一つが告げています。「木工で鋤やくびき、寝台を造る」お姿が書かれています。後の聖書になりますが、漁師たちの町の住人が主のことを「ナザレの人」と知っています。これらのことから、青年時代の主は、父と共にナザレを含むガリラヤを商っていた、と推測されます。働きの過程で青年期の主は、生きる人々の暮らしを「つぶさに」知ったのです。

 

主と漁師たちとの面識の有無は、断定できません。ただ確定できるのは、主は人々の「生きる悩み」をご存じだったことです。いくつか、あります。宗教上の規程のため、魚をより分ける(レビ11)手間、ユダヤ南部からは地域性のゆえに蔑まれる辛さ、日による漁獲の有無。家族や雇い人(20)の生活を守る、人知れない義務感。そこに主は「神の国は近づいた」「悔い改めよ」(14)と語った。「神さまは、あなたの頑張りを知っているよ」なのです。

 

この世では、関係性の構築には時間がかかるものです。しかし主は、「母の胎にある時から(エレミヤ書1)」あなたのことを知っている。増して日常生活のあなたの思いを知らないはずがありません。この世では、私たちが(さまざまな)師を選びます。しかし聖書は、主があなたを選び、「友と呼ぶ」ということを強調します。だからこそ私たちは、この主のみ前に常に立ち返りたい。困難な行き詰まりに立ち尽くす時に、たえず祈るものでありたい。





2021年1月17日日曜日

1/16.17 柳井と徳山

 

 1/16 柳井チャペルの礼拝堂となります。

 この日は温かく、途中で空調を切るほどでした。16度ほど。

 1/17 徳山チャペルの礼拝堂です。

 この日は寒く、途中でファンヒーターを追加するほどでした。ただ今の外気6度。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

1/20  水曜日 19時 六日市C礼拝 

1/23 土曜日 15時 柳井C礼拝 

1/24 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 ヨハネによる福音書 1:4351 (新共同訳聖書、新約165ページ)

 説教                 「行け、暗闇の地へ」

51節の「神の天使たちの昇降」は、旧約の創世記28(46)、「ヤコブの夢」が下敷きの話です。アブラハムの孫、ヤコブは父と兄から祝福と財産を横取りし、回心どころか域外逃亡。その夜、石を枕に休む時にこの「神の天使たちの昇降」の夢を見る。神は、不行届きなものに一方的にみ手を伸べることに気付くのです。ヤコブはこの夢を契機とし、自己本位な者から感謝する者へと変えられます。福音書のナタナエルと結びつくのです。

 

今日の聖書には、いささか珍しい弟子「フィリポとナタナエル」が登場します。当初、弟子とされたのはペトロと同郷であったフィリポ。彼はナタナエルに、ナザレ出身としての主を紹介します。ところがナタナエルは聖書(ミカ5)を典拠とし、「ナザレから何か良いものが出るか」とフィリポに答えるのです。主はユダヤ南部のベツレヘムでお生まれになりましたが、なぜか伏されています。ヨハネ福音書では、主は「ナザレの人」となっているのです。

 

聖書に基づくナタナエルの答えは、ガリラヤ地域蔑視にもつながるものです。しかしそれがその時代の一般的な感性であることは、主も「偽りがない(47)と告げる通りです。そのナタナエルに、主は「初めからの洞察(48-49)」を告げ、最後に「ヤコブの古事に基づく話」をなさいます。これこそ前述のように、神と隣人のみ前に大きな過ちを犯したヤコブへの赦しです。主はナタナエルに、この古事に基づいて手を伸べ、弟子と為すのです。

 

主はこのナタナエルも「暗闇の地(マタイ)」と呼ばれたガリラヤに伴います。主はどの福音書でも、「神の眼差しが及ばない」とされた、蔑視のガリラヤで公生涯を始められます。さて、主がナタナエルに告げた「もっと偉大な事(50)」はいつ、どのような内容で起こるのか。やがて復活なさったの主は、意気消沈した弟子たちにガリラヤに戻るように告げ、実際このナタナエルともそこで再会します。訪ねて下さる主を思いつつ、日々を過ごしたい。

 

 

 

 

2021年1月12日火曜日

1/9.10 礼拝堂

 

1/10の防府の礼拝堂となります。

ポインセチアは礼拝堂後方に移動しました。

1/10の徳山の礼拝堂です。

先日来からの豪雪で、中国地方山間部の六日市在住の方から、

欠席の連絡を頂きました。

中国地方山間部は、火曜日でも積雪30センチとのことです。


いつから雪を楽しいと思えなくなったのでしょうか。

北陸、上越地方の状況が速やかに改善されますように。

1/13  水曜日 19時 六日市C礼拝 

1/16 土曜日 15時 柳井C礼拝 

1/17 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 マルコによる福音書 1:911 (新共同訳聖書、新約61ページ)

 

 説教                「神の力に覆われ」

毎年、一月の第二主日も「固定の聖書日課」「主の洗礼」となっています。この出来事はマルコ福音書の冒頭部分、主の初登場の所に記載されています。マルコ福音書にはクリスマス物語(主の誕生と礼拝物語)はありませんが、この事柄を通して、「主を礼拝するクリスマス」を私たちに伝えるのです。当時の人々を取り巻く「社会、家庭」の厳しい環境は、私たちも共有して感じるものかと思います。私たちは今日も、福音の言葉に支えを得たい。

 

主は「ガリラヤからヨルダン川に来た(9)」とありました。ユダヤ国内の一つの見方では、「辺境の地から辺境の地へ」です。ただ気候の面では「緑豊かな所から、生気ない場所」とも言えます。主は神さまの導きの中で、転機、転身をなさる。クリスマスに主が天から地上に生まれたように、ここで主はヨルダン川に行かれる。ヨハネ福音書はその所を「ベタニア(ヨハ128)」と書いていますが、主は「苦境」の方々と共に歩む決意を為さるのです。

 

そこに聖書は、不思議な事象を「随行者にも分かるように」10節で列記します。「天が裂ける」とは、雲間から光が差す光景でしょう。「神の介入(イザヤ63)」を表します。「霊が下る」とは、「使徒2章」に如実なように、より生き生きとされる光景。「愛の声」は、詩編2などにある「神さまが主を支える」ことの表明です。「あなたを支える主を、神さまが支える」それが、随行者マルコにも知らされ、後年、主をたたえる福音書の先駆けとなったのです。

 

「洗礼を受けた人だけが神さまに特権的に愛される」そうではありません。聖書は誰に対しても、「主があなたを支える」ことを告げています。受洗とは、神さまからの愛に対する応答の「一つ」と言えます。愛の応答には、さまざまあります。いわゆる「奉仕」も、最終的には「誰かや自身のための祈り」も、応答になるのです。福音書で主は「ベタニア」に来られましたが、今も「ベタニア」に来られます。私たちも、居るところで「主を礼拝」したい。