2020年3月29日日曜日

3/28.29の礼拝、葬儀のお花

 これは防府Cの写真です。久しぶりに晴れました。

  3/20(金/休)西教区総会が行われました。写真は、定年、異動の先生がたとなります。
  こちらは防府の礼拝堂内部となります。四旬節の最中です。
3/29早朝の徳山C礼拝堂となります。昨日は葬儀が行われました。
 ご家族に天来の慰めを覚えるひと時でした。
 柳井、防府からも集われました。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

4/1 水曜日 19時 六日市礼拝

4/3 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山 休会となります。
4/10 金曜日 から再開いたします。       
  
4/4 土曜日 15時 柳井C礼拝 

4/5 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 防府C礼拝と合同となります。
       15時半  広島C牧師就任式
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ヨハネ福音書1117-37
涙には三種類のものがあるということです。一つは眼球保護の涙、一つは異物除去の涙、一つは感情的な涙です。言うまでもなく聖書は、「感情の涙」に焦点を当てます。詩編30編「泣きながら夜を過ごす人にも…」、同126「種の袋を背負い、泣きながら…」いずれも生活の労苦に際し流れる涙について語っています。また哀歌218には、「神さまの涙」と思える表現があります。神に「人格神」の側面を見出すことが出来るのです。

それでヨハネ福音書1035は、新旧含め「最も短い聖句」です。主が涙を流されたその原因は何か。今日の聖書は、ラザロの死を巡る一連の出来事です。ラザロはベタニアの出身(1)でした。極貧の出自ですが、兄弟姉妹同士の支え合いの中で過ごしていたのでしょう。しかしそのラザロが病み患う。見舞いを切望していた主は、なぜか足踏みをします(4-6)。その間にラザロは死ぬのです。二人の姉妹の、主への言葉が響きます。

マルタ、マリアとも、図らずも同じ言葉で主を責めます(21-22.32)。「なぜゆっくりしておられたのですか」という趣旨でしょう。主はマルタには「復活」を告げ、彼女も「やがての復活」についての理解には達しています(23-27)。ところがマリアはひたすらに悲しんでします(33)。ここで主の心情に変化が起こります。マリアの悲しみ、周囲の人の悲しみに対して「心に憤りを覚え、興奮した(33)」という表現の後、ラザロの葬りを確認したラザロは「涙を流された(35)」のです。主の涙には、3つの意味があると思う。

1つは「一緒にいたユダヤ人への憤りの涙(33)」でしょう。いわゆる「泣き女」など「上辺だけの共感」への憤りの涙。2つはマリアへの寄り添う思い。マルタと対照的に、うずくまるマリアを主は覚えて下さるのです。3つは死への憤り。生あるものから喜びを奪う死そのものに主は憤られたのです。そして、死は最終的に滅ぼされる、そのことを示すために主はあえて遅れられたのですし、ラザロを「蘇生」させたのです。私たちは「蘇生」は見ないと思います。しかし「復活」の時に、懐かしい方々と再会する希望を頂きたい。
 

2020年3月15日日曜日

3/14.15 礼拝堂と献花、看板

  3/8(日)の防府礼拝所でした。曇天で、なかなか良い写真がとれません(なみだ)。
 防府礼拝所の、道に面した看板は柳井礼拝所の方が記載して下さいます。
  こちらは、3/14(土)の柳井礼拝所でした。四旬節も第三主日に入りました。
こちらは、3/15(日)の徳山礼拝所でした。
 この日は、熊本から木下理牧師、その御伴侶も礼拝に集われました。
 また、手術を終えられた方のご家族、入院・加療を要する方のご家族も集われました。

今週、来週の予定は下記の通りです。

3/18 水曜日 19時 六日市礼拝


3/19 木曜日 15時 牧師訪問日

3/20 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山 休会となります。
       10時 西教区総会 於:大阪教会
  
3/21 土曜日 15時 柳井C礼拝 

3/22 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ヨハネ福音書 45-26
「しかし、サマリアを通らねばならなかった(4)」。この短いお言葉に主のお気持ちが込められています。「ねばならない」とあります。日本語の微妙な言い回しですが、この言葉には「強いられて」という意味、「自らの意思を強く押し出して」という意味があると思います。「サマリアを通る他に道がなかった」のか、「主は自らの使命感をサマリアに見出された」のか。この言葉に隠された主の気持ちは、今日の聖書全体で明らかにされます。

サマリア入りされた主は、「ヤコブの井戸」に座を作ります。弟子たちの軽挙ゆえ、急な行動を求められ、お疲れだったのでしょう(1-4)。時は正午、そこにサマリアの女性が登場します。言うまでもなく、水汲みにはあり得ない時間帯です。水を求めた主に、素っ気ない態度(9)、関わりを持とうとしない態度(11)を示します。ところが、そういう言葉の端に主はこの女性の「渇き」を見出すのです。つまり、周囲の女性、男性、宗教者から受けている「冷たい」扱いで、この女性の心が渇き切っていることを主は見抜かれるのです。

そうです。「渇いている(15)」女性は、「汲みにくること(15)」もまた苦しみなのです。主は、「正午の水汲み(7-14)を通して、この女性が周囲の女性から受けている目線に気付かれた。また主は、「五度の離婚(16-17)」を通して、この女性が市井の宗教者から受けている目線にも気付かれた。そして主は「未入籍の現状(18)」を通して、同棲中の男性がこの女性を「モノ」扱いしていることにも気付かれた。主の眼差しの凄さです。

「強弁」の裏には、渇きがあった。主はこの女性と出会うため、サマリアを通られたのでしょう。そしてこの女性に限らず、助けや救いを求めている人と出会うため、主はこれからも道を歩まれるのです。「君は愛されるために生まれた」韓国発出の讃美歌です。「心の嘆きを包まず述べて」も「いつくしみ深き」の歌詞の一つです。この世でも、教会の公同の礼拝でも、自身の心の嘆きを発出する余裕はないのかもしれません。むしろ、主との個別の出会いである「祈りの時」にこそ、嘆きを出したい。それを「祈り」とも呼ぶのです。
 


 

2020年3月3日火曜日

2/29.3/1 礼拝堂

  3/1の防府の礼拝堂です。
 四旬節に入り、典礼色は紫でした。
 
同じく3/1の徳山の礼拝堂です。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

3/4 水曜日 19時 六日市礼拝

3/6 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
  
3/7 土曜日 15時 柳井C礼拝 

3/8 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 41-11
昔は、洗礼式はイースターに行っていました。四旬節とは、そのための備えの時期、つまり「古い自分から、新しい自分に変えられる」という洗礼の出来事を想起する時期でした。四旬節は、元来は洗礼志願者のための準備期でしたが、それが全ての人に説かれるようになりました。その一例は「節制の勧め」です。「古い自分との決別」という意味で、嗜好品を断ち、その分の金銭を必要なところに捧げる「慣習」もあります。慣習は人の業ですが、大切なのは主がご自身を捧げて下さったというその一点にあると思います。

さて、「荒野の誘惑」の要点は、「悪魔(呼び方の変化がありますが)はその心の欲する所を巧妙に突く」ということにあるでしょう。先の「嗜好品」などもその一つなのかもしれません。主に向けられた誘惑は、「飢えの満たし」「身体の丈夫さと名声」「伝道の躍進」でした。それぞれ、今の主の状況を悪魔は見越し、言葉かけをなすのです。しかし主は、時にはみ言葉までも用いる悪魔に、み言葉で応じる。み言葉が誘惑を退けるのです。

「誘惑に聖書のみ言葉で応じた」とは主のお姿でした。これは私たちに適用できるか。誘惑は平穏な時、神さまのみ言葉に耳を澄ませているときは来ないのです。主を襲った悪魔のように、欠乏時や何かの必要を覚える時、み言葉の用意がない時にこそ訪れるのです。でも私たちは悪魔に負けない。聖書の最後に「天使たちが仕えた」これは誘惑を跳ねのけた後の主の周囲ですが、私たちには誘惑の渦中でも主が共にあるのです。

40という数字は、ノアやモーセの古事を思い起こさせるものです。それぞれの時、確かに悲惨な事柄が襲いましたが、同時に「神の助け」も散見出来ました。その神の助けは、主の行いに見出せます。主は悪魔の誘惑には乗りませんでした。乗れば主の伝道は飛躍的に進んだはずですが、主は個々の人との「顔と顔を合わせる関係」を望まれたのです。嗜好品を断ち、他者を覚えることも大切です。そして「主が共にある」という自明のことを再確認することも大切です。両者の根幹には、「神の私たちへの愛」があるのです