四旬節に入り、典礼色は紫でした。
同じく3/1の徳山の礼拝堂です。
今週、来週の予定は下記の通りです。
3/4 水曜日 19時 六日市礼拝
3/6 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
3/7 土曜日 15時 柳井C礼拝
3/8 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書 4章1-11節】
昔は、洗礼式はイースターに行っていました。四旬節とは、そのための備えの時期、つまり「古い自分から、新しい自分に変えられる」という洗礼の出来事を想起する時期でした。四旬節は、元来は洗礼志願者のための準備期でしたが、それが全ての人に説かれるようになりました。その一例は「節制の勧め」です。「古い自分との決別」という意味で、嗜好品を断ち、その分の金銭を必要なところに捧げる「慣習」もあります。慣習は人の業ですが、大切なのは主がご自身を捧げて下さったというその一点にあると思います。
さて、「荒野の誘惑」の要点は、「悪魔(呼び方の変化がありますが)はその心の欲する所を巧妙に突く」ということにあるでしょう。先の「嗜好品」などもその一つなのかもしれません。主に向けられた誘惑は、「飢えの満たし」「身体の丈夫さと名声」「伝道の躍進」でした。それぞれ、今の主の状況を悪魔は見越し、言葉かけをなすのです。しかし主は、時にはみ言葉までも用いる悪魔に、み言葉で応じる。み言葉が誘惑を退けるのです。
「誘惑に聖書のみ言葉で応じた」とは主のお姿でした。これは私たちに適用できるか。誘惑は平穏な時、神さまのみ言葉に耳を澄ませているときは来ないのです。主を襲った悪魔のように、欠乏時や何かの必要を覚える時、み言葉の用意がない時にこそ訪れるのです。でも私たちは悪魔に負けない。聖書の最後に「天使たちが仕えた」これは誘惑を跳ねのけた後の主の周囲ですが、私たちには誘惑の渦中でも主が共にあるのです。
40という数字は、ノアやモーセの古事を思い起こさせるものです。それぞれの時、確かに悲惨な事柄が襲いましたが、同時に「神の助け」も散見出来ました。その神の助けは、主の行いに見出せます。主は悪魔の誘惑には乗りませんでした。乗れば主の伝道は飛躍的に進んだはずですが、主は個々の人との「顔と顔を合わせる関係」を望まれたのです。嗜好品を断ち、他者を覚えることも大切です。そして「主が共にある」という自明のことを再確認することも大切です。両者の根幹には、「神の私たちへの愛」があるのです