2019年3月31日日曜日

3/30.31 節目の礼拝と献花

 3/31 徳山Cの礼拝堂です。
 四旬節も真っただ中。
 レンテンローズが捧げられました。
3/30 益田教会の節目の礼拝でした。
礼拝では教会の歴史が語られ、その後音楽のたくさんの捧げものが捧げられました。
柳井から2名、防府から3名、徳山から牧師を除く大人1 子ども4が集いました。

今週、来週の教会行事、牧師動静は以下のとおりです。

4/2 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究
 
4/5 金曜日 牧師 一粒の麦日帰り旅行

4/6 土曜日 19時 六日市礼拝 

4/7 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
       15時00分 下関教会牧師就任式礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。



ルカ151132
 「放蕩息子のたとえ」と聖書の小見出しにはあります。しかしこの話の本当の主人公?は神さまであると考えます。家出をし、放蕩を重ねた末に帰郷した弟はもとより、その弟を憤然たる思いで眺める兄も、父はそれぞれ受け止める、ということが聖書で言われています。信仰の歌である詩編は「人間とは何者でしょう(第八編)」とつづります。様々な立場や思いの中に立たされる人間を、神さまは顧み、傍に、共に立つ話なのです。

 聖書時代の規範から言えば、この弟はあり得ないことを続けざまに為します。「財産の生前二分割願い」は、「人倫的問題(父の生活を顧みない)」と「長子優遇権(長子はその他の子よりも二倍多く受け取れる)」を無視した願いでした。受けた財物を彼は現金化します。しかし土地については「買戻し義務」が発生します。残された父と兄は、同等の金額を払って弟の土地を再取得したのです。弟の放蕩ぶりは語るに及ばず。使い切った先に思い描く「父の家」に帰るのです。どこまで無神経なのか。しかし父はこの弟を迎える。

 兄ならずとも、この弟には憤りすら覚えます。兄は弟不在中も、父と共に労働していたのです。自分の感情をため込み、来る日も来る日も粗食と重労働に耐えていた。普段はその感情を出しませんが、父による弟への度を過ぎた(と思った)厚遇を目の当たりにしてその思いを父に吐露するのです。父は「怒って家に入ろうとしない」兄に対しても、家の外に出て来てなだめるのです。ここでも父の「留まらない姿」に注意が必要です。

 「死んでいたのに生き返った」と父は、弟本人にも兄にも告げています。弟息子のような経験は余りないかもしれません。むしろ私たちは、日常生活に於いては兄のようであるかもしれません。「感情労働」「重荷を抱えている」「病苦の中にある」ことを思いつつ、日々を「死にそうに」なっている者なのかもしれません。神さまは、そんな私たちを見て下さる。それだけでなく、み座を離れ、私たちの週日にも寄り添う。日曜の朝、それぞれの場から教会に来た私たちを「良かった、生き返ったね」と喜び迎えて下さるのです。



2019年3月20日水曜日

3/17 礼拝と献花と音楽発表会


 3/17(日)、徳山Cでは礼拝に引き続いて、会員の「音楽発表会」が行われました。

 周南市内で広く「音楽教室」を開催している会員が、ご自分の生徒さん方の発表の場として教会を用いて下さいました。

 写真は聖壇の様子(四旬節第二主日)です。
 賛助出演の教会員もおります。

 今週、来週の教会行事、牧師動静は以下のとおりです。

3/19 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究
 
3/23 土曜日 14時 益田礼拝
       19時 六日市礼拝 

3/24 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。



ルカ18章31-43節
 「四旬節」には、十字架へと向かう主のみ苦しみの意味が聖書を通して語られます。しかし、主のお気持ちとそれを受け止める人々の気持ちには「ズレ」がありました。主としてはご自身の受難と復活の事柄を伝える。弟子たちは主の言葉の真意を問わず、解さない。「怖かった」と時に聖書は伝えます。弟子たちの心情は理解できます。ルカ福音書でも主は三度、受難と復活予告を告げられますが、弟子たちは無理解なのです(31-34)

 しかし主は、「無理解が悪で理解が善」という単純な構図を語りません。ルカ福音書もその主の気持ちを代弁するかのように、弟子たちの話の後に印象的な話を置くのです。「盲人の癒し」。「主をダビデの子と呼ぶ」ことは、主を救い主と告白していることと同様です。その盲人は、「叱られ、黙らせようとされた」にも関わらず、主に求め続けた。「何をして欲しいのか」との問いに「癒し」を願う。主はこの人の信仰に感銘の言葉をもらし、この人を癒す。この話単独では「熱心な信仰」を進める教育的話となります(35-43)

 ルカは「無理解な弟子たち」と「熱心な信仰者」とを並記していることが大切なのです。これらの話単独では、弟子たちや盲人の心根とそれを顧みる主のお姿だけが強調されるのみです。ただ、これを単独の話と見ず、一連する話と考えたときにどうか。或いは無理解も理解も一人の人間に起こることとして考えたらどうか。つまり、「無理解と理解」をただよう者に注がれる主の眼差しを伺うことはできないか。それは私たちの姿です。

 信仰に至る契機や、信仰者として生きる過程には、様々な出来事があります。「熱意をもって主に求めた」盲人の信仰を抱く時もありましたし、「主のお言葉の意図がつかみにくい」弟子たちのという時期もあったと思います。「叱りつける」先導者の時もある。折々の時を踏まえつつ、主は今日もそしてこの四旬節にも「十字架と復活」を私たちに語るのです。その意図は「罪の赦しと新生」にあります。神さまに顔向けできない「罪」、例えば高慢や悪意を、主は十字架で赦し、「新生」「永遠の命」に私たちをいざなうのです。




 

2019年3月10日日曜日

3/9.10 礼拝と献花と説教題、花壇

  3/10(日)雨の主日でしたが、本日も徳山では礼拝が行われました。
 昨日は益田、六日市でも礼拝が行われました。
 礼拝後、会員の方が花壇の手入れをして下さいました(雨の中)。
 ただ感謝の思いです。
  なんだかこの最近、説教題がうまくいきません。
 一か月前の思いつきと説教作成週の思いのズレが…。
見方を変えて、会衆席右側からの写真です。
 今週から「四旬節」に入りました。典礼色は紫になります。
 今週までルーテル教会「改訂式文」ダイヤを試していました。
 来週からはハート式文となります。

 今週、来週の教会行事、牧師動静は以下のとおりです。

3/12 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究
 
3/14 木曜日 15時 シオン教会三役会 於:光市

3/16 土曜日 14時 益田礼拝
       19時 六日市礼拝 

3/17 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ 4章1-13節
 「四旬節第一主日」とは、十字架へと向かう主のみ苦しみの意味が示される最初の主日です。しかし、主が誘惑に遭われたが、誘惑をみ言葉によって乗り切った今日の聖書の記載が、どのようにして「主のみ苦しみ」と重なるのか。「誘惑と克服」がなぜ「十字架」と関わり合うのか。そのことがらは、主が誘惑に遭われた40という日数の聖書的な意味を 紐解くことによって、明らかにされると考えます。では40という数字は何を意味するか。

 有名な所では「試練の日数」です。ノアの古事は、雨が同日数降り続いたことを語ります。ノアと同日数「主は苦しまれた」のですし、加えてとどめの三つの誘惑があります。空腹を満たし(第一誘惑)、神の国を一瞬で立ち上げ(第二誘惑)、主に神を疑わせる(第三誘惑)ものです。しかし主はみ言葉を通して誘惑を退ける。すると「時が来るまで」悪魔は主を離れるのです。離れた悪魔は、主の十字架直前にユダの心に入り、策謀を為します。

 主は三つの誘惑に加えて、ありとあらゆるこの世の誘惑に「苦しまれた」のでしょう。ここから「主の受けぬ試みも…ない」(讃美歌532)という信仰の言葉が出て来るのです。しかしこれだけでは、主の苦しみと私たちの関連性は「誘惑の共通性」に終始します。40という数字は、「執り成しの日数」でもあります。神さまはモーセに、十戒の石板を二度渡したのです。一度目の石板は、ユダヤの民があまりにもだらしなかったので壊してしまいました。二度目の石板は、モーセの40日の断食と執り成しの思いを通して授けられたのです(申命記9)

 神と人との執り成し(和解)のために、主は十字架に架かられ、復活されました。そのことから私たちにも、「永遠の命」が示されたのです。荒野の40日の断食と誘惑は、やがて読む「主の十字架」への先取り。つまり主は、神さまと私たちとを再度結び、「懐かしい人」に再開できる喜びを今日の聖書で示そうとされているのです。誘惑には勝てません。気付いた時には誘惑による後悔の渦中ということがあります。むしろ、そのような私たちを主は、十字架と復活の出来事で導き、一歩を歩み出して下さることを覚えたい。