3/17(日)、徳山Cでは礼拝に引き続いて、会員の「音楽発表会」が行われました。
周南市内で広く「音楽教室」を開催している会員が、ご自分の生徒さん方の発表の場として教会を用いて下さいました。
写真は聖壇の様子(四旬節第二主日)です。
賛助出演の教会員もおります。
今週、来週の教会行事、牧師動静は以下のとおりです。
3/19 火曜日 11時 牧師 柳井行き
15時 徳山聖書研究
3/23 土曜日 14時 益田礼拝
19時 六日市礼拝
3/24 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ルカ18章31-43節】
「四旬節」には、十字架へと向かう主のみ苦しみの意味が聖書を通して語られます。しかし、主のお気持ちとそれを受け止める人々の気持ちには「ズレ」がありました。主としてはご自身の受難と復活の事柄を伝える。弟子たちは主の言葉の真意を問わず、解さない。「怖かった」と時に聖書は伝えます。弟子たちの心情は理解できます。ルカ福音書でも主は三度、受難と復活予告を告げられますが、弟子たちは無理解なのです(31-34節)。
しかし主は、「無理解が悪で理解が善」という単純な構図を語りません。ルカ福音書もその主の気持ちを代弁するかのように、弟子たちの話の後に印象的な話を置くのです。「盲人の癒し」。「主をダビデの子と呼ぶ」ことは、主を救い主と告白していることと同様です。その盲人は、「叱られ、黙らせようとされた」にも関わらず、主に求め続けた。「何をして欲しいのか」との問いに「癒し」を願う。主はこの人の信仰に感銘の言葉をもらし、この人を癒す。この話単独では「熱心な信仰」を進める教育的話となります(35-43節)。
ルカは「無理解な弟子たち」と「熱心な信仰者」とを並記していることが大切なのです。これらの話単独では、弟子たちや盲人の心根とそれを顧みる主のお姿だけが強調されるのみです。ただ、これを単独の話と見ず、一連する話と考えたときにどうか。或いは無理解も理解も一人の人間に起こることとして考えたらどうか。つまり、「無理解と理解」をただよう者に注がれる主の眼差しを伺うことはできないか。それは私たちの姿です。
信仰に至る契機や、信仰者として生きる過程には、様々な出来事があります。「熱意をもって主に求めた」盲人の信仰を抱く時もありましたし、「主のお言葉の意図がつかみにくい」弟子たちのという時期もあったと思います。「叱りつける」先導者の時もある。折々の時を踏まえつつ、主は今日もそしてこの四旬節にも「十字架と復活」を私たちに語るのです。その意図は「罪の赦しと新生」にあります。神さまに顔向けできない「罪」、例えば高慢や悪意を、主は十字架で赦し、「新生」「永遠の命」に私たちをいざなうのです。