2020年7月21日火曜日

7/18.19防府と柳井


 7/18(土)の柳井教会の礼拝堂です。
 掛け軸はヨハネ福音書「一粒の麦」の箇所となります。




 こちらは防府教会。7/19(日)です。
 徳山を出がけに来客、お話を伺った出がけの電話、
 そして徳山を出たら道路渋滞と、あやうく遅刻しそうでした。

 今週、来週の礼拝は下記の通りです。

7/22 水曜日 13時 臨時常議員会(テレビ会議)
       19時 六日市礼拝

7/24 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       この日は休みとなります。 

7/25 土曜日 15時 柳井C礼拝 

7/26 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1324-30

 「麦と毒麦の話」がこの日、与えられています。解釈の一つは、蒔かれた畑がこの世。「善悪」とされるものが混然としている中、軽々しく判断せず、「終わりの時」を待つようにということです。このような「終末時の清算」は、主の時代に流布していた考え方の一つです。では、私たちのこの時代にこの話は、どのような理解が出来るか。「畑」を私たちの心と定めつつ、その中にある「良い麦、悪い麦」を考えて行くことが出来ると思うのです。

 

 そもそもこの話は「悪の問題」に向き合う主の話と理解します。「なぜこの世に悪が存在するのか、それにどう向かうのか」は、「古くて新しい問い」なのです。かつて人生の日々に悩んでいた時、詩編59篇、ローマ12の言葉に導きを得た思いがします。神さまの働きに委ね、信頼すること。それが聖書の回答の一つです。ここでも、他者に害を与えうる「毒麦」が、「そのまま」で、終わりの日に刈られるという結論に胸を打たれます。

 

 「悪の問題」への主としての見解は「悪魔、悪者」の仕業ということです。存在することと思いますし、その所業と思えることにも直面することがあります。神さまのご差配にお任せしつつ、しかし私たちは「自分の悪、毒麦」にも謙虚に目を向けたい。自身の内にある「他者への痛み」を生み出す毒麦を思う。それを主は「毒麦を抜こうとすると、良麦までも抜いてしまう(29)」と言われます。実際、麦も毒麦も、地中で根を絡ませるということです。私たちの内面も、複雑に絡み合う中で主は「そのままにせよ」と、そう言われます。

 

 主のみ弟子の一人に「熱心党のシモン(104)」が居ました。武力闘争で悪と向かい合う団体に属する者です。極例と思いますが、この世や諸事への「力」のアプローチには限界ある。善悪を人の眼で峻別し、仕分けることには無理があると思います。確かに私たちの身近で為される「不正義」は無視できず、「立ち向かう」のです。出来ること、可能な所には参与し、最終的な所は“そのまま”に結び付くのかと思います。自身のことにも他者にも、為すべきを為し、語るべきを語り、導きの主に任せる。そうありたいと思う。










2020年7月13日月曜日

7/10「門司教会」とシオン教会


 7/10(金)門司教会に行きました。ここは同級生の牧師が働いています。
 7/11(土)柳井教会の礼拝堂となります。
 7/12(日)こちらは防府教会の礼拝堂。

 7/12(日)徳山教会の礼拝堂です。夜遅くの撮影。この雰囲気も好きです。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

7/15 水曜日 19時 六日市礼拝

7/17 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

7/18 土曜日 15時 柳井C礼拝 

7/19 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書131-9

 聖書本来の脈絡では、今日の聖書の「種蒔く人」は、二つの意味を現すかと思います。「種蒔く人とは誰か」…それは、神さまであり、また神さまから使命を託された「私」であると。本来、聖書が語ろうとしていることは、後の解説(18-23)をも重ね合わせる時、「神さま(種まく人)が、み言葉(種)を蒔いた。その際の受け取り方」という意味になります。「湖のほとりの聞き手(1)」に対して、み言葉を受け入れ、悟ることが告げられます。

 

 しかし、種の行方についての例え話はいちいち驚かされます。「道端に落ちる種(4)」が意味することは、み言葉を心の端に置き去りにすること。「根無し草となる種(5-6)」とは、み言葉を根付かせないほどに浅い心の持ち主であること。「茨に隠される種(7)」とは、心配事を多く抱える状況の中で、み言葉が隠されること。それは当時の人々も、私たちも、包み隠す所のないまことの姿と言えるでしょう。聞いた人はどう反応したでしょう。

 

 このような「最良」を提示する箇所は、どうしても「良い土地=人=心」を目指させるものです。「み言葉を受け入れる、広く良い心になりましょう」と。分かり易い指針ですが、それだけに限界を感じさせます。生きる上での苦労を重ねる「湖畔の人々(1)」も同じでしょう。しかし主はこの解説部分で「御国の言葉」と言われます。主が「択一」を語られるとき、そこには「御国の言葉」という前提があるのです。「天の国は近づいた(417)」つまり、主ご自身が私たちの「生育の場」に近づいて下さる。そこが基点、起点なのです。

 

 そもそもみ言葉の種がどこに蒔かれるか、私たちには分かりません。神さまは等しく私たちにみ言葉を与えて下さいます。ただ、それを受ける私たちの状況は折々に異なる。忙しない時や、平時にはみ言葉を逃すこともあり得るでしょう。その時は、「種を無駄にしている」のではなく、「種が根を張っている」時です。困難の折、私たちの信仰の芽は弱く、根が枯れそうです。しかし主が近づき、私たちを育てて下さるのです。種蒔く人の主に倣いつつ、私たちはそれでは、自分自身の「愛の種」を、誰かに、どこかに蒔いて生きたい。



2020年7月7日火曜日

7/4.5 礼拝と献花


 7/4(土)の柳井C礼拝堂です。
 ひまわり。向日葵と書くのですね。
 



 7/5(日)の西条教会礼拝堂です。
 新たにこの教会に就任された宮沢真理子牧師の就任式が行われました。 
 この日の防府礼拝は、藤井邦夫牧師にして頂きました。

 シオン教会では、6月から、それぞれのチャペルでの礼拝を再開しました。
 また、変わらずに郵便での「家庭礼拝送付」も続けています。
 お入り用の方はご連絡ください。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

7/8 水曜日 19時 六日市礼拝

7/10 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

7/11 土曜日 15時 柳井C礼拝 

7/12 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1125-30

 聖書には「旧/新約」を問わず、「奇跡」の記述があります。内容は、大枠では「神さまの御業」、個別では「創造、維持、改変」、人知を超えた出来事です。ただ「神さまの御業」の一つには「人間への恩顧(詩編8)」があります。「聖書レベルの」出来事ではないかもしれませんが、私たちにも「奇跡」の体験はあると思います。それは人知の結実の「偶然」か、神の配剤「奇跡」か。日課は、主の御業の捉え方を巡ることの続きとなります。

 

 前段は「二つの町(のある人々)が奇跡を受容しなかった」記載でした(20-24)。その出来事を受けて「その時(25)」と日課が記し始めることに注目です。「これらのこと」つまり奇跡の意味は、「知恵ある者や賢い者」には隠されていたと主は言われます。「二つの町」のある人々を、主は日課では憤りの対象となさいません。むしろ、それぞれの人生経験の故に、奇跡が解し難い。むしろ「幼子」のようなものにこそ示されると言われます。

 

 「奇跡」は神の介在、介入、それが解され難いのはなぜか。幼子との対比で明確なのは、「年月」でありましょう。年月が増し加わる中で、人には「疲れ、重荷」が蓄積されていくものでしょう。両者をあえて分類すれば、疲れとは継続的なもの、重荷とは突発的なもの。それらの故に、「神の御業」が見えにくくなる、端的に言えば「神さまへの疑義」「神さまなしの生」に近づいていくのです。そのような私たちの心に、主があのみ言葉を語りかけるのです。「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。

 

 「休む」こととは、繁忙の時代に生きる私たちにとり、大切な言葉と言えるでしょう。しかし休みっぱなしでなく、出発をしなければなりません。その時に携えたい言葉は「主のくびき」です。二頭を一つながりにするのがくびき。「私のくびきを負いなさい」と語る主の意図は、私たちの引く「疲れ、重荷」を主も共に引いて下さるということです。主の御許で休むとき、私たちの疲れや重荷を主はご覧になる。そしてそれらを自らの重荷として下さるのです。