2020年7月7日火曜日

7/4.5 礼拝と献花


 7/4(土)の柳井C礼拝堂です。
 ひまわり。向日葵と書くのですね。
 



 7/5(日)の西条教会礼拝堂です。
 新たにこの教会に就任された宮沢真理子牧師の就任式が行われました。 
 この日の防府礼拝は、藤井邦夫牧師にして頂きました。

 シオン教会では、6月から、それぞれのチャペルでの礼拝を再開しました。
 また、変わらずに郵便での「家庭礼拝送付」も続けています。
 お入り用の方はご連絡ください。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

7/8 水曜日 19時 六日市礼拝

7/10 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

7/11 土曜日 15時 柳井C礼拝 

7/12 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1125-30

 聖書には「旧/新約」を問わず、「奇跡」の記述があります。内容は、大枠では「神さまの御業」、個別では「創造、維持、改変」、人知を超えた出来事です。ただ「神さまの御業」の一つには「人間への恩顧(詩編8)」があります。「聖書レベルの」出来事ではないかもしれませんが、私たちにも「奇跡」の体験はあると思います。それは人知の結実の「偶然」か、神の配剤「奇跡」か。日課は、主の御業の捉え方を巡ることの続きとなります。

 

 前段は「二つの町(のある人々)が奇跡を受容しなかった」記載でした(20-24)。その出来事を受けて「その時(25)」と日課が記し始めることに注目です。「これらのこと」つまり奇跡の意味は、「知恵ある者や賢い者」には隠されていたと主は言われます。「二つの町」のある人々を、主は日課では憤りの対象となさいません。むしろ、それぞれの人生経験の故に、奇跡が解し難い。むしろ「幼子」のようなものにこそ示されると言われます。

 

 「奇跡」は神の介在、介入、それが解され難いのはなぜか。幼子との対比で明確なのは、「年月」でありましょう。年月が増し加わる中で、人には「疲れ、重荷」が蓄積されていくものでしょう。両者をあえて分類すれば、疲れとは継続的なもの、重荷とは突発的なもの。それらの故に、「神の御業」が見えにくくなる、端的に言えば「神さまへの疑義」「神さまなしの生」に近づいていくのです。そのような私たちの心に、主があのみ言葉を語りかけるのです。「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。

 

 「休む」こととは、繁忙の時代に生きる私たちにとり、大切な言葉と言えるでしょう。しかし休みっぱなしでなく、出発をしなければなりません。その時に携えたい言葉は「主のくびき」です。二頭を一つながりにするのがくびき。「私のくびきを負いなさい」と語る主の意図は、私たちの引く「疲れ、重荷」を主も共に引いて下さるということです。主の御許で休むとき、私たちの疲れや重荷を主はご覧になる。そしてそれらを自らの重荷として下さるのです。