2020年7月13日月曜日

7/10「門司教会」とシオン教会


 7/10(金)門司教会に行きました。ここは同級生の牧師が働いています。
 7/11(土)柳井教会の礼拝堂となります。
 7/12(日)こちらは防府教会の礼拝堂。

 7/12(日)徳山教会の礼拝堂です。夜遅くの撮影。この雰囲気も好きです。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

7/15 水曜日 19時 六日市礼拝

7/17 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

7/18 土曜日 15時 柳井C礼拝 

7/19 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書131-9

 聖書本来の脈絡では、今日の聖書の「種蒔く人」は、二つの意味を現すかと思います。「種蒔く人とは誰か」…それは、神さまであり、また神さまから使命を託された「私」であると。本来、聖書が語ろうとしていることは、後の解説(18-23)をも重ね合わせる時、「神さま(種まく人)が、み言葉(種)を蒔いた。その際の受け取り方」という意味になります。「湖のほとりの聞き手(1)」に対して、み言葉を受け入れ、悟ることが告げられます。

 

 しかし、種の行方についての例え話はいちいち驚かされます。「道端に落ちる種(4)」が意味することは、み言葉を心の端に置き去りにすること。「根無し草となる種(5-6)」とは、み言葉を根付かせないほどに浅い心の持ち主であること。「茨に隠される種(7)」とは、心配事を多く抱える状況の中で、み言葉が隠されること。それは当時の人々も、私たちも、包み隠す所のないまことの姿と言えるでしょう。聞いた人はどう反応したでしょう。

 

 このような「最良」を提示する箇所は、どうしても「良い土地=人=心」を目指させるものです。「み言葉を受け入れる、広く良い心になりましょう」と。分かり易い指針ですが、それだけに限界を感じさせます。生きる上での苦労を重ねる「湖畔の人々(1)」も同じでしょう。しかし主はこの解説部分で「御国の言葉」と言われます。主が「択一」を語られるとき、そこには「御国の言葉」という前提があるのです。「天の国は近づいた(417)」つまり、主ご自身が私たちの「生育の場」に近づいて下さる。そこが基点、起点なのです。

 

 そもそもみ言葉の種がどこに蒔かれるか、私たちには分かりません。神さまは等しく私たちにみ言葉を与えて下さいます。ただ、それを受ける私たちの状況は折々に異なる。忙しない時や、平時にはみ言葉を逃すこともあり得るでしょう。その時は、「種を無駄にしている」のではなく、「種が根を張っている」時です。困難の折、私たちの信仰の芽は弱く、根が枯れそうです。しかし主が近づき、私たちを育てて下さるのです。種蒔く人の主に倣いつつ、私たちはそれでは、自分自身の「愛の種」を、誰かに、どこかに蒔いて生きたい。