7/25 土曜日 15時 柳井C礼拝
7/26 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書13章24-30節】
「麦と毒麦の話」がこの日、与えられています。解釈の一つは、蒔かれた畑がこの世。「善悪」とされるものが混然としている中、軽々しく判断せず、「終わりの時」を待つようにということです。このような「終末時の清算」は、主の時代に流布していた考え方の一つです。では、私たちのこの時代にこの話は、どのような理解が出来るか。「畑」を私たちの心と定めつつ、その中にある「良い麦、悪い麦」を考えて行くことが出来ると思うのです。
そもそもこの話は「悪の問題」に向き合う主の話と理解します。「なぜこの世に悪が存在するのか、それにどう向かうのか」は、「古くて新しい問い」なのです。かつて人生の日々に悩んでいた時、詩編59篇、ローマ12の言葉に導きを得た思いがします。神さまの働きに委ね、信頼すること。それが聖書の回答の一つです。ここでも、他者に害を与えうる「毒麦」が、「そのまま」で、終わりの日に刈られるという結論に胸を打たれます。
「悪の問題」への主としての見解は「悪魔、悪者」の仕業ということです。存在することと思いますし、その所業と思えることにも直面することがあります。神さまのご差配にお任せしつつ、しかし私たちは「自分の悪、毒麦」にも謙虚に目を向けたい。自身の内にある「他者への痛み」を生み出す毒麦を思う。それを主は「毒麦を抜こうとすると、良麦までも抜いてしまう(29)」と言われます。実際、麦も毒麦も、地中で根を絡ませるということです。私たちの内面も、複雑に絡み合う中で主は「そのままにせよ」と、そう言われます。
主のみ弟子の一人に「熱心党のシモン(10:4)」が居ました。武力闘争で悪と向かい合う団体に属する者です。極例と思いますが、この世や諸事への「力」のアプローチには限界ある。善悪を人の眼で峻別し、仕分けることには無理があると思います。確かに私たちの身近で為される「不正義」は無視できず、「立ち向かう」のです。出来ること、可能な所には参与し、最終的な所は“そのまま”に結び付くのかと思います。自身のことにも他者にも、為すべきを為し、語るべきを語り、導きの主に任せる。そうありたいと思う。