8/8 土曜日 西教区 常議員会(メイル持ち回り会議)
8/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書14章13-21節】
マタイ福音書が主(やその父ヨセフ)に多用する言葉があります。それは「退く」という言葉です。退却や引退など、敗北あるいはそれを予感する言葉に「退く」が用いられています。日本語では、何かの失敗、失策を予想させる言葉となります。ところがマタイ福音書は、主の場合には「失敗、失策」ではなく、「神さまの導きの中の転進」の意味を持たせるのです。「洗礼者ヨハネの死」を通して主に示されたのは、そのような「退き」でした。
主は、「船に乗り、人里離れた」所に退かれた。「船」とありますが、ガリラヤ地方のことでした。「死の影の地 4:16」と、別の地方からは蔑まれていた土地でした。主がガリラヤへ「行かれたこと」を「退かれた」とマタイは表現するのです。マタイの意図では、主は「引退、退却」されたのではなく、「使命として、召命を受けてそこに転進された」ということなのです。神さまは、主とガリラヤ地方の人たちとの改めての出会いを企図された。主ご自身も、神さまによる出会いのきっかけを受け、そこへと歩みを向けられたのです。
「ガリラヤは“死の影の地”である」というような、およそ私たちの感性ではそういう呼び方を他地方に向ける事はありません。これを現代の言い方に直せば、「地域ぐるみの蔑視、いじめ」を受けていたということです。ガリラヤの人々の生き方も気持ちも「退く」。そこに主は歩みを重ねられたのです。「五千人の給食」の話の発端も、「十分なものがない」という弟子たちの気分の「後退」感でした。主はその弟子たちにも共感され、人間の思いの限界を超えた「給食の奇跡」を為される。「退く」者に主が近づかれるのです。
さまざまな意味で、「退く」ことが求められる時代です。「活動の縮小、限定」が課せられます。また今日の時代的な背景ではなく、私たちには個々に「ふさぎこむ、内に向かう」時を送ります。その私たちに今日示されるのが「ガリラヤに、神さまと自らのご意思で歩まれる」主のみ姿なのです。一つの場所で合同礼拝を行い得ない私たちですし、分断が見える世の中ですが、まぎれもなく主は、「退く」私たちの心に思いを寄せて下さる。