写真の掲載ができませんでしたが、過去のものからピックアップしました。
やはり写真は大事ですね。
8/19 水曜日 19時 六日市C礼拝
8/23 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書15章21-28節】
福音書の中で「船」はよほど身近だったのでしょう、話の中に「人間を現すもの」として、良く登場します。私自身もこの表現は好きです。ただ私たちは「一艘の船」ではないですね。私たちとつながり、結ばれている船もまたあります。家族関係だけでなく、ゆるく、広いつながりが当てはまります。神さまは、私個人の神さまです。しかし神さまは「私という船」を通し、私のつながりの先に思いを向けて下さいます。それを今日聞いていきたい。
主は当時「異邦の地」と見做された「ティルスとシドンの地方(21)に行かれます。距離としては柳井⇔防府間の80キロほどで、かなり大まかですね。この地域内のどこかに行かれたのでしょう。当時のユダヤの世界観は、時代の故もありますが、独自性の強いものがありました。平たく言えば「偏狭」です。しかし、ここにマタイ福音書の自問自答があります。マタイも「系図(1:1~)」を強調する、生粋のユダヤ主義者でしたが、果たして主はどうなのか。主も「ユダヤ主義者」であるのか。主はこの話でその問いに答えます。
ここに病の子どもを持つ「異邦人(22)」の親が登場します。様々な親子関係がありますが、この女性は子どもの病を案じつつ(22)、主に癒しを願います。典型的な反応が弟子たちと主に示されます。つまり弟子たちは「排除」、主も当初は「無関心」(いずれも23節)を示します。当時のユダヤは、異邦人に対してはそのような態度だったのです。弟子たちは本心だったでしょうが、主は「建前(10:6)」を告げられます。つまり「自身はユダヤのために働く」と。しかし女性は食い下がる。主はこの女性の熱意、思いを見られます。
この女性の思いは何か。それは「神さまの恵みは一か所には留まらない(27)」というものでした。特定すれば「ユダヤ」に留まらない。今に転じて言えば「あなた」に留まらないのです。この女性は、神さまの働きの大きさに信頼し、主はそこをご覧になったのです。さあ、この話を通して示されているのは、「神さまは私を通して近しい者(船)に関わる」ことです。差し当たって私たち、聖書の女性のように、近しい者を覚える群れでありたい。