2018年2月25日日曜日

2/24.25 海と礼拝と献花

2/24の益田小浜の海です。
 昨日、難所の峠道はまだ雪で離合困難でしたが、平地部はだいぶ融けていました。
 海も多少、荒れていました。
 この後、いつものように小浜礼拝が守られました。
 小浜礼拝では、長年益田教会を守ってこられた方の弟君の召天を覚えて祈られました。


  前に捧げられたランの花が元気です。
  本日の献花です。春を思い起こさせるみずみずしい緑の葉と花です。
先週の献花です。梅の花が満開です。

 四旬節第2主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、F兄が証しをしてくれました。
  聖餐式に頂く「パンとぶどうジュース」の意味について話されました。
2 白内障の手術をされる姉妹のために祈りがなされました。
3 過日、召天された益田教会のH兄、柳井教会のS姉のおしゅうとめさんの
  ことを覚えて祈りがなされました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。


2/27 火曜日 聖書の学び 15時より




3/2  金曜日 世界祈祷日礼拝 9:20教会集合
3/3  13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
3/4 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書10章32-45節】
 伝わっている福音書は、誰が書いたのでしょうか。主から見て、孫弟子にあたる人々と言われています。主の直接の弟子たちが語り継いだ言葉を厳選し、書物にまとめたのです。福音書の中には、弟子たちの奔放な姿が記載されています。弟子たちは、自身の話をその弟子たちに語る際、ためらいはなかったか。また孫弟子たちも、師匠らの姿を体裁よく整えなかったか。そこには一つの方針があって、「ありのまま」を記載したと思われるのです。

 その方針とは「主を記載する」ということです。主の姿を留めるために、弟子たちも孫弟子たちも、あえてそのままを記載したのです。今日の聖書は、主の受難予告の三度目です。三度目になる受難予告にはパターンがあり、「ユダヤ教宗教者たちとの論争、苦難、復活」です。主としては、自身の十字架と死と復活が何のためであるか、傍の弟子たちに伝えたいお気持ちでこれらの言葉を繰り返すのです。でも、弟子たちはこの受難予告の時には、「打てば響く」反応を見せないのです。むしろ、愚かしい姿をそれぞれの時に示す者なのです。

 一度目の受難予告の時、ペトロは主をたしなめますが、逆に叱られます。二度目は、主の言葉の直後に「誰が一番偉いか」と論じ合っています。二度目の論じ合いが不首尾だったので、弟子たちのうちにヤコブとヨハネは、主に直訴したのでしょう「良い所に座らせて下さい」と。見事なまでの落差です。世の救い、人々の癒しのために自身を投げ出そうとする主と、自分のことだけを考えている二人の兄弟。主は「杯を飲めるか、洗礼を受けるか」とこれらの弟子たちに問います。弟子たちは「出来ます」と、何とも力強い返答を主に向けるのです。

 教会の歴史を見れば「出来る」と答えた弟子たちは、やがて「殉教/島流し」の刑に服します。それは後々のことで、この時点では二人とも、空返事だったのです。「困った弟子たちだ」と、主ご自身も思われたでしょう。後々振り返って、二人も思い返したでしょう。しかし二人は、あの時主は自分たちをあきらめず、導いて下さったと感謝に至ったのです。人間の本質はそう変わりませんが、主はそんな私たちのことも、喜んで導かれます。
 

2018年2月18日日曜日

2/17.18 道路と海と献花と礼拝



 2/17 山口市の徳佐手前の峠道です。凍結してガタガタの道でした。
益田市小浜海岸。この後、いつものように小浜礼拝が行われました。
  2/18 徳山礼拝の献花です。紫が、会員の誕生日を覚えて捧げられました。
 四旬節カラーに合わせてあります。

  2/18 徳山礼拝の献花2です。梅の花です。

 四旬節第一主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、M姉が証しをしてくれました。
  「マラナタ」の讃美歌から、聖餐式の意味について話されました。
2 体調不良の方のために祈りがなされ、春になって会えるようにと祈られました。
3 教区女性会総会で役員に選任された姉妹のための祈りがなされました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。


2/20 火曜日 聖書の学び 15時より

2/24  13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
2/25 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。

【マルコ福音書1章12-13節】
 福音書にしばしば登場する「悪霊」または「サタン」は、人には害悪を為すとされていましたが、主には従順という書かれ方をしています。当時、悪霊やサタンがどう見なされていたか。詳細は省きますが、「神さまの家来」とされていました。なぜ神さまの家来が人を試み、害悪を為すのか。旧約のヨブ記はその点に一つの示唆を与えています。「試すため」です。人がいかなる時でも神さまを思い出すことが出来るか、現状に自暴自棄にならないか。今日の聖書は「荒野の誘惑」ですが、その中で私たちに問われていることを聞きましょう。

 それで、なぜ主が誘惑に遭われたのか。主が誘惑に折れるわけなく、サタンの唆しに乗るはずなく、野獣に危害を加えられるはずもありません。無意味な誘惑をなぜ受けられたか。それは「四〇日間」という日数の意味を解くことが重要です。四〇とは、聖書の中では「訓練、試練の時」ですし、当時の人生の長さでもあります(人生40年の世界)。つまり、「主が40日間誘惑に遭われた」ということが意味するのは、「人生には時として試練としか思えないことが続く時があり、人生そのものが誘惑との戦いである」という意味なのです。

 そして、サタンは聖書の世界観では「神さまの家来」です。「誘惑を避けましょう」と言うのは易いのですが、甘くはない。気付いた時には誘惑にはまっている現状です。私たちの心の欲する所を巧妙に突くのがサタンですから、どうしようもありません。対処法は、サタンの思惑を知ることにあります。抽象的な言い回しですが、神さまは、私たちの手をしっかり握って離しません。しかしサタンは誘惑によって、私たちが自分から神さまとのきずなの手を離そうと試みます。では、どうすれば良いのか、聖書は結論を書いています。

 それは「天使が守っている」というみ言葉に顕著です。「四〇日間」主には天使が仕えていました。私たちには、いついかなる時でも主がそばにいます。それは、誘惑にはまり、苦難に心がしぼむ時も同様です。それが「私たちを誘惑に遭わせず、悪より救って下さい」という主の祈りの解き明かしにもつながります。私たちの人生に、主が共にあります。
 

 


2018年2月11日日曜日

2/10.11 礼拝と海と献花

  2/11 徳山礼拝献花です。ただし先週のが今週も元気です。
 礼拝堂は日曜日こそ暖房を入れていますが、週日は一桁温度ですので、
 お花も生き生きとしているのでしょう。

  こちらは2/10の益田の海です。雲が迫って来ています。
 この後、山陰では大雪になったようです。
 
こちらは2/11 徳山献花です。
 水仙が春を告げています。

 主の変容主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、K兄が証しをしてくれました。
 幼子のために教会の人が祈る、ということの大切さを思いました。
2 本日、御尊父の法要を為さっている兄弟姉妹のための祈りがなされました。
3 明日の教区女性会総会で役員に選任予定の姉妹のため、
  またかつて役員をなさった姉妹のための祈りがなされました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

2/12 広島 教区女性会総会
   大阪 教区常議員会
2/13 火曜日 聖書の学び 15時より

2/17  13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
2/18 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書9章2-9節】
 今日の聖書は、十字架への道を歩み始めるイエスさまのお気持ちを確かに見ることが出来る箇所です。それは「六日後」という、唐突に登場する時間表現からも明らかなのです。

 文脈に関係ないように思える「六日後」。この「六」という数字に意味はあるのか。聖書で「六」とは、「未完全、不十分」を表す数です。本日の聖書は、主が神さまとしてのお姿を示されたのですが、それはこの時は未だ十分でないということなのです。弟子たちの姿が主の思いを明らかにさせます。この三人、主の公生涯中は、少なからずの問題を抱えていて、その問題が主によって浮き彫りにされていました。早合点、激情家というところです。

 以前「早合点」のペトロは、主の受難予告をたしなめて、逆に叱られていました。このペトロにとって主は「栄光のお方」なのです。その思いは続いていて「仮小屋を造りましょ」と今日の聖書でも言います。要は、主に栄光の姿のまま、旧約聖書の偉人たちと語り合う神的な姿のまま留まって欲しいのです。しかし偉人たちは姿を消し、主のみが残ります。旧約の偉人たちも、主ご自身にも、何よりも神さまにも、主が栄光の姿を示すのは「不十分」だという思いがあったのです。そうです、主は栄光だけでなく、苦難の道を歩み始めるのです。

 今日の聖書で示唆に富む言葉は「山を降りる」でしょう。かつて主は、「いと高き」ところで神さまの御子として暮らしておられました。その主がクリスマスで人の世に生まれ、生まれてから即座に艱難辛苦に巡り合われました。神さまも主も、高い所にお留まりになることも出来たのです。しかし神さまは、人を裁きたいお気持ちもお有りでしたが、最後には人を救うために、御子をも救うために十字架の決断を為したのです。来週からは四旬節に入ります。栄光から苦難へ、山上から平地を経て十字架を見上げる主を覚えましょう。