「一粒の麦」職員の方によって修繕が進められています。感謝です。
4/26(日)徳山チャペル。
4/26(日)防府チャペル。
気づいたら金曜日。更新が遅れて失礼いたしました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
4/29 水曜日 16時 六日市チャペル 家庭礼拝
5/2 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
5/6 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。
5/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
5/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
4/26(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
復活節4主日 説教
ヨハネ福音書10章1節-10節 「あなたを守る神」
水原一郎
① 主イエスは言われました「私は羊の門である」。それは唐突な宣言ではありませんでした。ヨハネ9章に、目の見えなかった一人の男が登場します。彼は主イエスによって見えるようになりました。しかしその出来事は、彼の人生を明るくしたわけではありません。人々に問い詰められ、宗教指導者たちの前に立たされ、「あの人は誰なのか」と繰り返し問われます。けれども彼は答えを持っていませんでした。「分かりません」と言うしかなかったのです。宗教指導者たちは、安息日に起きた癒しを問題にしました。しかし彼は、彼らの求めに結果として応じませんでした。ついには会堂から追い出されます。癒されたにも拘らず、彼は居場所を失ったのです。目は開かれました。しかし、その目が最初に見たのは、祝福ではなく排除でした。その彼を、主イエスは探し出されます。追い出されたその場所で、主は彼に語られたのです。「私は羊の門である」と。
② 古代ユダヤの荒野には、羊を守る囲いがありました。石垣で囲われた一角に、ただ一か所だけ開いた部分があります。そこが門です。夜になると、羊飼い自身がそこに身を横たえることがありました。外と内、危険と羊とのあいだに、自分の身体を置くのです。それは力で支配する守りではありません。羊が守られるために、羊飼いが最も無防備な場所に立つ――そのような守りでした。主イエスの「私は羊の門である」という言葉は、ご自身がこれから歩まれる道を含んだ宣言でした。
③ 主イエスは言われます。「門を通らず、他から乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である」。ここで告発されているのは、悪意ある者だけではありません。律法を大切にし、共同体を守ろうとした人々です。しかし彼らは、癒された男の混乱や喜びに身を寄せることなく、自分たちの正しさで彼を囲いの外へ押し出しました。共同体に復帰しようとする彼と正面から向き合わず、他から乗り越え、彼を外に追い出してしまうのです。
④ 主イエスは言われます。「私は門である。私を通って入る者は救われる」。ここで語られる「救い」とは、ただ来世の安らぎではありません。今ここで、神のまなざしのもとに生きることです。自分の存在が、条件付きではなく、受け入れられていること。傷つき、つまずいたとしても、戻ってくる場所があること。それが、救いです。主は言われます。「私は来た。羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。この「命」とは、ただ息をして生きることではありません。神とつながる命、関係の中で生きる命です。その命が、主イエスを通して、今ここに差し出されています。
⑤ この「門」という言葉は、やがて主イエスご自身の歩みによって、はっきりとした形を取っていきます。十字架とは、神がわたしたちのために「門」になった出来事でした。命と死のあいだに。救いと滅びのあいだに。神ご自身が横たわったのです。人間の罪と暴力と拒絶が、それ以上、羊たちをのみ込まないように。神は、遠くから命じる方ではなく、境界に立ち、身体をもって引き受ける方であられました。だから主は言われます。「私を通って入る者は救われる」。それは、安全な囲いに閉じこもることではありません。傷つく世界へ、再び遣わされるとしても、もう命を奪われることはない――そのような救いです。一週間が始まります。日常の荒野へと出て行く私たちの前に、主は今も門として立っておられます。前を行き、後ろをふさぎ、わたしたちの名を呼びながら。この方を通って生きるところに、命があります。しかも、豊かな命があります。



