2016年10月23日日曜日

10/23 礼拝とメッセージと献花


秋の桜と書いてコスモスです。桜は、パッと咲いてサッと散る、という印象があります。
ところが春の桜と違って、秋を名残惜しむかのようにいつまでも咲いている花です。

本日も徳山では礼拝が行われました。
礼拝後には三色丼が振る舞われました。

 今週、来週も以下の日程で 礼拝や集会が行われます。
いずれの集会、礼拝とも、どなたでもご自由にお越し頂けます。

 10/25(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00


 10/27(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝 19:30~ です。
 10/30(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

本日の礼拝のメッセージです。



【ルカ福音書18914節】
聖書には、自分を正しいと考えるファリサイ派の人が登場します。彼らはどうも、正しい生活をしていたようです。その当時定められた断食は、年6回すれば良かった。何と彼らは週2回したのです。献金は、特定の品物の1/10を捧げれば良かった。何と彼らは全収入の1/10献金をしたのです。だが彼らは、他者を侮蔑していました。よろしくないことです。

それでもファリサイ派は、他者を侮蔑することも正しいことと考えていたのです。一方で徴税人。彼らこそ嫌われ者でした。出しに挙げられている「奪い取る不正者」だったのです。この徴税人の自己理解はファリサイ派と逆でした。神殿の端で祈ります。義とされたのはこの徴税人と主は結びます。義とされた、とは赦しです。大丈夫、安心せよの思いです。

ファリサイ派は、自分で自分に安心しきっていました。だから、与えられた信仰を、自惚れと他者の侮蔑の祈りのために使うのです。果たしてこれが祈りかと首を傾げますが、祈りは祈りです。神さまは、こういう祈りも聞きます。聴かれない祈りは無いのです。一方この徴税人は、自分で自分の生き方が納得できなかったのでしょう。信仰をざんげのために使うのです。神さまは、この祈りも聞きます。神さまが、喜ぶ祈りはどちらでしょうか。

そしてこの徴税人の祈りは短いですね。だが主は、祈りの長短を問わず、祈る人の心を取り上げて下さいます。主は祈りの心をご存じなのです。なら私たちの祈りは不要か、違います。祈りとは呼吸です。祈りを欠けば私たちの信仰も無になります。それは寄る辺を無くすことです。この徴税人は寄る辺なき人生で信仰を寄る辺としたのです。私たちは今日、祈りの大切さを想起したい。主の祈りがあります。全部で無くとも一句でも良い。義とされるとは力を頂くこと。祈って下さい。すると、神さまからの力が与えられます
 

2016年10月16日日曜日

10/16  献花と礼拝メッセージ


 本日の礼拝献花です。夜半に撮りましたので、周囲が暗いのです。


 本日も、徳山では礼拝が行われました。礼拝後は鯛めしキノコご飯。秋の味覚ですね。
 キノコの卵おすましも頂きました。

 今週、来週も以下の日程で 礼拝が行われます。
 もう、年末まで数か月です。愕然としましたが・・・・・・。

 10/18(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00


 10/20(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝 19:30~ です。
 10/23(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

本日の礼拝のメッセージです。


【ルカ福音書18章1-8節】
主は最後に「人の子が来る時、地上に信仰を見出すか」と問います。主の言葉には私たちに関わりのある背景があります。「終末」です。終末には二つの意味があって、一つ目は主の再臨。二つ目は私自身の命の終わりとしての終末。誰もが二つ目の終末を確実に迎えます。その際果たして主は信仰を見出すかという問いです。背筋が正される言葉です。

私たちに、熱意さ、熱心を求める聖書です。だがこの例え話は難解というか、強烈な印象が残ります。不遜な裁判官が登場します。彼の思想は裁判官として矛盾しています。果たして裁判官と言えるか。煩いからと聴くのですが、要点は、不遜な裁判官でも熱意にほだされるということです。益して神は熱心な声を取り上げるというのが話の趣旨です。

問われる信仰の熱意です。平静時には熱意は持ち得ないものです。おそらく私たちは、自身の終末の時には、熱心にすべてに取り組むのでしょう。今は、そうではないかもしれません。熱意が大切という言葉は理解できますが、冷めてしまうものです。平静な今、できることがあります。まず、聖書の通り、熱意を受け入れたもう主の心を知ることです。

そして、もう一つ主が私たちに望まれることがあります。「神を恐れず人を人と思わない」のは、私たちの世の中でしょう。これは皆さんの方が承知していることです。私たちが生きる処にある問題と、その問題に翻弄される私たちや隣人がいるはずです。身近に居ないか、近しい人はいないでしょうか。私たちは、自身の祈りを、その隣人の執り成しのためにも向けたいのです。小さい私たちには小さい信仰があります。だがその私たちの信仰に、神さまは祈りの心を下さるのです。祈りは信仰者にとって深呼吸。礼拝堂に満ちる神さまの愛を頂いて、自身のため、他者のために祈るものとなりたい。深呼吸なのです。

2016年10月9日日曜日

10/9礼拝


 写真は、以前のものです。だた、本日の様子を表すに最適なものと思いましたので、
再掲載です。

 本日は、ルーテル神学校の働きを覚える礼拝が行われました。
 説教は、徳山教会先牧師の河田優牧師でした。

 本日は礼拝後、結婚式が行われました。
 教会員子弟の結婚式でした。大勢の皆さまの御芳志を頂いての式でした。
 説教は、 続けて徳山教会先牧師の河田優牧師でした。
 送り出してくださったルーテル神学校のお働きに感謝いたします。

  今週、来週も以下の日程で 礼拝が行われます。

10/11(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00


10/13(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝 19:30~ です。
10/16(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

本日の礼拝のメッセージです。



【ルカ福音書171119節】
イエスさまはある村」に入られます。村」とあることに注意が必要です。当時皮膚病を患う方は故郷を放逐されました。そういう状況の中で、なぜこの10人は村に住んでいたと記載があるのでしょう。恐らく同病故に身を寄せ合って生きるしかなかったということでしょう。ユダヤ民族もサマリア民族も無区別だったのです。主はその村に近づく。ルカ福音書の主の特徴は、人と共にあることです。主は人の世に生きるのです。主は彼らに近づきます。

いうまでもなく「感謝」がテーマなこの聖書、実は感謝には二種類があると考えます。
一つ目は、「うれしいこと」に感謝する思い。帰らなかった9人の心は如何か。彼らにも感謝の心はあったでしょう。ただ感謝表明以上に、祭司に自身の体を見せ、治癒証明を貰い、生活再建を重んじた。「うれしいこと」に注目すると、感謝の心は埋もれ易くなる。

二つ目は、不利益にも感謝する心です。帰って来た一人は主に感謝しました。癒された彼ですが、病の完治証明は、サマリア人であるという理由だけで得難いのです。彼は今後も不利益を被り続けるのです。だが主に感謝しました。自身の不利益を前にしても、主に感謝する心を持つのです。ここにあるのは、全てのことに感謝するという心持ちなのです。

パウロは高名な箇所で全てに感謝」といいます。この「全て」とは、利益は元より不利益も含むものです。私たちは日ごとの感謝すら覚束ないものです。不利益などため息か愚痴の足しにもなりません。この10人も癒えたから9人は内心で感謝し、一人は主に感謝出来たのでしょう。けれど、この聖書が語る感謝の重大な点を語っていませんでした。主が近づいた、それ故彼らは感謝し得たのです。私たちには、不利益や困難、絶望の最中でも主が共にある。感謝は、「主が共にある」ことを覚えるからこそ生まれてくるものなのです。
 

2016年10月7日金曜日

10/8 徳山C庭整備

 鐘撞堂の左、整地前です。

 小型ブルドーザーが、掘り起こしています。根っこも含めて。

 作業中その1
 こういう具合に落ち着きそうです・・・が、この後、何回か木の向きを
替えていました。生育に適した向きがあるそうなのです。
この場所は西日が当たる所ですし。
 完成! ありがとうございました。
教会員の方が植えられた「龍のヒゲ」も、きちんと植えられています。
明日、土曜日は雨の予報です。少しでも根付くように。

そして日曜日、晴れの予報はそのままで。

10/7 益田の夫婦岩


 益田市 小浜海岸の夫婦岩です。
 ・・・二つ並んだ岩を、夫婦岩と命名しただけなのですが。

2016年10月2日日曜日

10/2 礼拝と献花、掃除

  本日の礼拝献花です。
 いつも同じアングル(角度)からの写真なのですが、この角度はお気に入りなのです。
 献花と十字架は、双方とも大切です。
  礼拝後、来週の教会結婚式を控えて大掃除や花壇の植え替えをいたしました。
 写真撮影後、初めて気づいた花を覆うこの影。誰のでしょう。

雑草とやぶ蚊の繁殖地だったこの場所も、きれいに手入れされました。

本日も徳山では礼拝が行われ、礼拝後には上記の大掃除が行われました。
教会の中もきれいにされました。

今週、来週も以下の日程で 礼拝が行われます。
週の初めの聖書の学びは、台風の進路次第で休会になる可能性もあります。

教会までご確認ください。

10/4(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00
台風の進路で休会する場合もあります。

 10/6(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝 19:30~ です。

 10/9(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

本日の礼拝のメッセージです。



【ルカ福音書17110節】
冒頭でイエスさまは、躓(つまづ)きは避けられないと語ります。キリスト教信仰を持っても躓くのです。躓きとは、神さまや隣人への絶望や不信と言い換えることができます。私たちは、自身が躓かせられることも、他者を躓かせることもある。弟子たちは、躓きに関して無理と考えます。益して赦しなどと思います。どうすれば赦せるようになるのか。

弟子たちは自身の信仰が弱く、細いから赦しえないと考えたのです。小さな薄い信仰はダメと私たちも陥りやすい。例えば喜び,祈り,感謝」は高名な言葉です。自身を吟味すればこの言葉に到達し得ず、むしろ真逆の日々です。例えば、立派な信仰ならば喜び,祈り,感謝」の日々が待っているのでしょうか。だが主は驚きの言葉です。小さな信仰でも良いのです。小さな信仰でも、神さまはその信仰を用いて働くと言って下さるのです。

私たちは日々祈るものです。それは神さまが私たちに働いて下さるが故に為し得るのです。人を赦すことも同じです。自身のみで考えれば、憎い相手はいつまでも憎い。しかし神さまがこんな自分を通して働くことに思いが至るとき、赦しや祈りの芽が出るのです。木を海に植え替える働きも、祈りや赦しも、神さまは私たちを通して為すのです。今持つ信仰を卑下するでなく、あるがままで生きる。神はそのままの私たちを用いるのです。

 人を躓かせないように生きる生き方は、換言すれば四方八方に気を遣って生きることでもあります。大変です。むしろこの言葉は、お弟子さんたちが直面する当時のファリサイに向けた言葉です。ルターの言葉に「罪赦された罪人」。「大胆に罪を犯し大胆に告白」というものがあります。何か不都合、何か失敗があっても、それを大胆に神さまのみ前で報告する勇気を得たい。私たちの為してしまった不都合は、神さまが必ず良きに導いて下さいます。